佐々木孝 評論集

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死霊を求めて
―埴谷雄高氏とともに


  死霊を求めて
      作家埴谷雄高氏とともに


 「これはなるほどひどいところだな」これは埴谷さんの声。「そういったって、ここまできて今さら引き返すって手はないでしょう」といくらかぶっきらぼうなTさんの声がそれに続く。まったくひどい藪だ。埴谷さんたちは、わずか四、五メートルくらい前なのに、声は聞こえても姿は見えない。笹や小枝から目を防ぐことに気をつかうと、こんどは蔦が足にからみつく。背をのばすこともできず、身を丸くかがめて、両手を前につき出し、少しずつ前進である。それにこの暑さはどうだ。汗がふき出て、胸や背中を気持悪く流れ下る。こういう時にうるしにカブレルんだ、とふと思った。
 ここは、福島県相馬郡小高町である。なんの変哲もない田舎町である。今ぼくたちが苦労しいしい進んでいるのは、小高の駅から南にわずかの距離のところにある小さな山、というより丘の、その裏側にあたる山あいである。
 今しがた、まつり気分の町なかを抜けてきたぼくたちには、別世界のようなこの静けさは、奇妙な寂しさとなって襲ってくる。藪の外は、まだ夕方近くのやわらかな陽の光があたりを金色に彩っていたが、ぼくたちが進んでゆく周囲はまったく光が届かない。先導するTさんは、たしかにこれが道だと言った。なるほど、注意してみれば、足もとは周囲よりわずか踏みかためられた形跡はあるし、藪の密生のぐあいもいくらかまばらとは言える。しかし、どっちにしたって、歩きにくいことに変わりはない。
 何分ほど歩いたろうか。とつぜん「ここがそうですよ」といううれしそうなTさんの声がした。前方は前方だが、なんだか下の方から聞こえたようだ。どうも道を踏みちがえたらしい。あわてて左側の笹薮を両手でかきわけ、すかして見たら、なるほど、四メートルほど下に、わずかだが空間がひらけて、そこにホッと一息ついている二人の姿が見えた。二人の前には大きな一枚岩がある。これが目ざす般若家代々の墓らしい。
 七月初旬のある日、ぼくは久しぶりに吉祥寺にある埴谷さんのお宅を訪ねた。これはもう毎度のことだが、当の埴谷さんの家が見えはじめると、どうしたことか急に引き返したいような衝動にかられる。戦後文学における埴谷雄高の姿が大きくふくれあがってくるような感じなのだ。もう少し自分をきたえてから、などと悲壮な気持ちになる自分もおかしいが、そう考えながらも、いつの間にか門前に立ってべルを押している自分の姿はなおおかしい。

 初めて埴谷さんのお宅を訪ねたのは、作年の十一月で、ちょうど上京中の島屋敬雄さんに連れていってもらった。ぼくが、西洋文学の、それも主にカトリツク作家の読者というそれまでの潔癖な姿勢から、ふと目覚めたふうに、現代日本文学に目を転じたとき、なにかしら心惹かれる作家を何人か見つけたが、なかでも埴谷雄高の名は頭にこびりついて離れなかった。そのとき読んだのは、二、三の評論にすぎなかったが、それらが持つ一種異様なふんいきに酔ったといったらいいのか。とにかく、一行一句さえもが、極度の緊迫感にみちており、作者の凝視力のすさまじさに圧倒されたわけである。「蘚苔植物的」な日本文学の風土にも、このような硬質な文体と思想があるということは、ぼくにとって意外な喜びであった。
 その埴谷さんから、いっしょに相馬へ旅をしてもいいと聞いたとき、ぼくは一瞬うれしいのか恐ろしいのか、妙な興奮を覚えたものだ。道中どういう話をしたらよいか、まるで面接試験を受ける受験生の心境に似ていた。しかし、旅の最初から、そのような取越し苦労は無用なことに気づいた。実に親切なのだ。ぼくは大いにとまどった、とひとまず告白してあこう。
 埴谷さんの書くものは、戦後文学最大の収穫と呼び声高い未完の長篇『死霊』をはじめとして、どれもこれも難解(ことばの真の意味でのナンカイのことだが)きわまりない。たとえぼ『虚空』などと言う短編は、まさに人間疎外の標本みたいな、人をつっぱなした作品だが、これらの作者埴谷雄高と、実生活者般若豊(本名)とが、どうしても結びつかないのだ。吉本隆明氏が、この間の事情を彼一流の鋭い分析で説明していたのをどこかで読んだ記憶があるが、ぼく流の解釈をすれば、埴谷文学の、一種非人間的ともいえるすさまじい迫力は生活者般若豊の非常に人間くさい温かさに支えられてこそ、だと思うのだ。と言っても、生活者般若豊の方がより本物だというわけではない。どちらも本物のハ二ヤ・ユタカであることはもちろんである。埴谷さんのように、あきらかに弁証法的思考法をとる作家は、実人生と虚構の生とを巧妙に拮抗させているはずだからである。これは、別に実生活と作品間の均衡関係ばかりではない。こころみに評論集をとりあげてもわかることだ。

 そこには「迷路のなかの継走者」などといういかにもしゃちこばった埴谷雄高がいると思えば、「大丼広介夫人」などという人間味あふれる埴谷雄高がいるわけである。
 ところで、今度の旅だが、表向きは相馬野馬追見物ということであるが、埴谷さんにとってはそんなことより、ご先祖の墓を訪れることのほうが、旅に踏みきられた直接の動機にちがいない。般若家代々の墓といっても、それは祖父母にあたる方までのそれで、ご両親の墓は青山にあるそうだ。つまり。埴谷さん自身は、この相馬にいちども住んだことはないのである。生まれは台湾、そして中学時代からは、ずっと東京で暮されたのである。相馬を故郷とするなら、埴谷さんは、いわばハイマート・ロス(故郷喪失者)のわけだ。相馬は四人の現代作家を生んだが、おもしろいことにそれがそろいもそろってハイマート・ロスなのである。四人とは、志賀直哉(祖父にあたる人が相馬藩の家老だった)、荒正人、埴谷雄高、島屋敏雄である,しかし、故郷喪失というのは、それを意識しないかぎりはそうではないという矛盾したことばだから、その意味でいくと、志賀直哉はもっとも喪失感がうすく、島尾敏雄がいちばん濃いことになる。
 「現実の直接的反映を私が構築した世界の中へ持ちこまないことを、殆ど絶対的な原則としている」埴谷さんの作品には、もちろん相馬が直接描かれたことはない。しかし、学生時代に何回か訪れたはずだし、父祖の地として、埴谷さんの意識の中には、相馬が生き続けていたはずだ。
 だからこそ、今、こうして埴谷さんはご先祖の墓の前に立っておられるわけだ。
 周囲は薄暗いが、それだけいかにも墓地らしいふんいきがあたりをつつんでいる。幽玄といっていいのか、幽絶といっていいのか、霊魂の安息の場所として、申し分のない場所である。台座は雑草におおわれ、墓石はこけむしているが、なかなか堂々とした墓である。あたりは寂として声なく、ただぼくたちのは息だけがわずかに周囲に生気を与える。死者は、いかにもつつましく世をしりぞいて生者の世界に干渉せず、時たまこうして訪れる生者に対しては、静かに胸のうちに語りかけるのである。死者はぼくたちがかれらを見捨てたようにぼくたちを見捨てたのではなく、求めるものにはいつも対話のチャンスを与えてくれることを、そのときぼくたちはさとるのだ。

  ある浪漫派の詩人は「死者たちのいかばかり孤独なことよ」と、ぼくたち生者の心意気を示してくれたが、しかし混沌とした現代社会に疲弊しきったぼくたちに対して、案外同じことばを死者たちの方でつぶやいているのかもしれない。「いかばかり生者の孤独なことよ」と。
  「死んだものはもう帰ってこない。生きてるものは生きていることしか語らない。」
  これは「永久革命者の悲哀」全編を流れる無気味なリフレインだが、ぼくたち現代人にどこか欠けているところがあるとすれば、それはただ生の側のみに目を向けて、そこにしがみつき、生のあちら側の声を聞こうともしない倣岸さにちがいない。
  ぼくたちは墓の周囲を少し鎌で払ったのち、Tさんの庭からいただいてきた花をたむけた。一瞬の沈黙。それぞれ何を念じたのだろうか。それは神のみぞ知る。つねづね埴谷さんは、ぼくは宗教に縁がない男だ、あったとしても般若教ぐらいなものだ、といくらか冗談まじりに言っておられるが、埴谷さんの一読者たるぼくの目にはそううつらないのだ。こんなことを言うと、おそらく埴谷さんは苦い顔をされるかもしれないが、埴谷さんは埴谷さんなりに神を志向しているのである。それは作品を読んでみれば歴然としている。神ということばが唐突なら、絶対者、絶対なるもの、どう言いかえてもかまわない。そんなことを言うなら、無神論者なんて存在しないではないか、それこそ我田引水もはなはだしいと反論されるかもわからない。いや、存在しないのである。有神論者を自認している人の中でもそれは理論だけで実際には無神論者がいるように、無神論者を自認している人の中に、理論的にはそうでありながら実際には有神論者がいるものだ。いやもっと正確に言うなら、根っからの(つまり理論面でも実際面でも)有神論者も無神論者もいないわけだ。人間はこれら二つの極をゆれ動く複雑な存在である。どちらかのレッテルをはって、それで安心できるほど簡単なことではないのだ。なにによらず、人問を軽々しく腑分けする悪しき合理主義からぼくたちは解放されなければならない。
  埴谷雄高が、日本におけるもっともドストエフスキイ的作家であることは、あまりに有名だが、ぼくはここに、ほんとうの意味での影響という現象を見ているのだ。ぼくたちがふつう呼びなれている影響は、多くの場合猿まねにすぎない。

およそ、ある人の思想というものが、別のある人に影響するという場合、おそらく、それを受ける側には全実存が震憾させられるほどの激しいショックがあるはずなのだ。たとえば次のような文章がある。
 「ところで、青年期に踏みこんだ私は、それから数年間、ドストエフスキイのみならず、文学作品からまったく隔離されているところの一種はげしい渦動の時代(左翼運動、獄中生活などを指すらしい)を経たが、その数年問を経たのちの私がふたたびドストエフスキイを読んだとき、私は、いってみれば、青年も壮年も老年も巧妙にひっくるめてみごとに組み台わせたところの驚くべき巨大な論理に直面した。おそらく、ドストエフスキイのうむを言わせぬ根強い影響が私の上に及ばされたのはこの時朗からといってもよいのであろうが、『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』は確かに私の魂の奥底を震撼して、その中のシガーレフ理論やキリーロフ理論や『大審問官』の章は何度読み返してもそのたびにこと新しく私の精神を熱く焼きたてるところの灼熱の鉄板と化してしまったかのごとき感があった。」(「ドストエフスキイと私」)
 今度の旅の一夜、埴谷さんは土地の同人誌の人たちに一場の話をなさったが、そのときも例の『大審問官』のことにふれた。いわば権カの、悪の権化ともいうべき大審問官へのキリストの無言の接吻の重さについてである。善と悪の均衡が、このなにげないキリストの接吻によって保たれていることを。つまりぼくが言いたいのは、ドストエフスキイに根底から震憾され、影響された埴谷さんに、このキリストとの対決は避けられない課題、おそらくは唯一の課題、にちがいないということである。
 埴谷雄高は、いまだキリストの接吻の重みについて多くを語らない。しかし、とあえて言うのだが、存在と非存在、現実と架空、光と闇、善と悪の、無限にわたる巨大なはかりの、そのバランスがとれるのは、ひとえにこの一瞬の接吻にかかっていると思うのだが。埴谷文学に以上のような緊迫した、闇に書かれた光の弁証法が成り立つとき、そこに真の意味での永久革命者埴谷雄高が登場するはずだ。

 『死霊』の作家が死霊をたずねる、という思いがけない光景に立ちあったぼくは、高嶺なる埴谷文学登攀の最初の足がかりをつかんだように思ったが、墓所に眠る死霊たちとの玄妙な対話をものした作家埴谷雄高はさらに高みへと昇る小径をみつけたにちがいない。
 墓所はますます闇を濃くしてきた。おそらく、墓地の外の生者の世界にも夕闇が訪れたのであろう。ぼくたちはふたたび墓の前に黙祷してから、寡黙な般若家の死霊たちに別れをつげた。

(「あけぼの」一九六六年十一月号)

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