佐々木孝 評論集

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ゴヤまたは楽園のアダム

 ゴヤの作品をその初期時代から晩年にいたるまでひとわたり眺めていくと、これが同一人物によって描かれたものかと疑いたくなるような、実に多彩多様な絵にぶつかる。もちろん専門家の眼から見れば、そこには紛れようもないゴヤ的筆致が途切れることなく流れているのであろうが、それにしても一人の画家のうちにこれほど多様な画家が同居している例はけだし稀であろう。ゴヤの中には、ただひたすら栄達を求めて注文主の気に入るように描く俗っぽい画家がいるかと思えば、孤絶と不安の中でひたすら光を求める苦行僧のようなゴヤがいる。そしてその複雑さかげんは、たんに時代によってそのように変化したというようなものではなくて、むしろゴヤの場合、それら多様なゴヤ群が同時に存在していることから来る複雑さである。ゴヤの絵を前にしたときの、まず率直な感受は「混沌」である。
 ところで、ゴヤを論じる場合、彼を典型的なスペイン人と見立てて、スペイン精神史から抽象した国民性一般をもって説明したり、あるいは逆に、彼をダシに話を一挙にスペイン文化論にまで広げるという誘惑に逆らうことは難しい。そしてそのどちらも多くの危険をともなっている。しかしスペインの他の大画家たち、たとえばベラスケス、エル・グレコ、ピカソなど(彼らとて実にスペイン的と言わざるをえないが)と比べてみても、スペイン人の長所・短所がゴヤ以上にはっきり露出している例が他にあろうとは思えない。 だが問題は、その「スペイン的」という表現それ自体であろう。何をもってスペイン的というのか?
 従来、スペインをめぐっては、たとえば「光と影」、「情熱」など、今さら使うのも恥ずかしいほど、手垢にまみれたコピーが出回ってきた。なるほどそれらは、スペイン的なるものを一筆書きで描くにはひじょうに便利ではあるが、そのあまりの簡便さゆえに、かえって実像を見にくくしている。ここで今一度、その根底にあるものを、あるいは「スペイン人」とは何者かを、洗いなおしてみる必要がある。


 ところでそのスペイン人論であるが、それこそスペイン人の数ほどあって、まともに付き合っていたら、八岐大蛇かメドゥーサを相手にするようなぐあいになってしまう。思いつくままに挙げれば、たとえばウナムーノやオルテガの作品に散見されるスペイン人論、M・ピダルの『スペイン精神史序説』やマダリアーガの『情熱の構造』などに展開されているスペイン人論などがあって、これらは翻訳で読むことができるが、他にも末邦訳のものとしてはF・ディアス・プラハの 『スペイン人と七つの大罪』などが面白い。 ところで私見では、スペイン精神史の縦糸は個人主義と神秘思想である。その二つは、結局は「スペイン的生の思想」に収斂されるが、これを説明するには与えられた紙幅では足りないので、ここではそれが具体的にスペイン人の性格にどのように現れるかを検証して、ゴヤ理解のための足がかりを作っておきたい。
 まず第一に、あらゆる時と場所において、おのれの人格の欠けることなき全体性を表現し、それを誇示せずにはいられないということがある。これはエゴイズムというより、スペイン人独特のエゴティズムである。つまりマダリアーガが言うように、スペイン人は「そのおもむくところ、そこに彼の全体がある」のである。堀田善衛氏の言い草ではないがゴヤはまるで「ごろた石」のように、常に、またどこにおいてもフランシスコ・ゴヤたることを値引きもしなければ韜晦することもなく、ごろりと露出させている。こうした生き方が洗練とか優美さからほど遠いのは当然である。
 第二に、やたら高いところに登りたがる。限度を知らない。ニーチェはある日、その妹に向かって「スペイン人! 彼らは常に過度に求める!」と言ったそうだが、ただ闇雲としか言いようがないほどに、高みを、極端を求める傾向がある。ゴヤの場合も、あきれるほどの執拗さでアカデミー会員を、さらには宮廷画家をと、ひたすら栄達を求める。ドン・キホーテは数々の不運の中で、しかもなお高みを目指しつつ、「妖術者どもは拙者から幸運を取り上げることはできよう。だが、努力と気力だけは無理だろうて」と言ったが、一八二五年、ボルドーで晩年を送っていたゴヤも、まったく同じようなことを書簡の中に記している。
 「一切のものが私には不足していますが、意志だけはあり余っております」。しかし彼自身にもその理由が分かっているわけではない。ちょうど死の床でこうつぶやいたドン・キホーテのように。「実を言えば、わしが精魂かたむけて達成したものがなんであるか、わしは知らない」。
 第三に、むやみにゼロから始めたがる。かの有名なアダム主義である。つまり先人の遺産を元手に、その上に自らの達成を積み上げることをいさぎよしとしない。スペインにおいていわゆる流派とか学派が形成されにくいのはここに原因がある。ここからはまた、フランスのような原理的・観念的な平等主義でもなく、またイギリス流の経験主義的・実践的な平等主義でもなく、言うなれば生得的・生理的な平等観が生み出される。つまり人間をその門閥、才能、美醜などからではなく、いわば人間性の海抜ゼロ地点から眺めるのである。ゴヤが描いたカルロス四世などは、その豪華な衣服を剥ぎ取ってしまえば、怠惰無能な醜男、というより熟れ過ぎのトマトのように見えるが、それはなにもゴヤがことさら批判的に描いたというわけでもあるまい。彼にはまさにそうとしか見えなかったのだ。
 第四に、両極端にあるものの共存あるいは混在である。矛盾を矛盾として受け入れる。ウナムーノは言う。「完全な真理はふつう除去法によって、つまり極端なものを排除することによって中庸の中に求められる(しかし)それよりも好ましいのは、矛盾を交互に肯定する方法であり……中庸のものが魂の中で活気を帯びることである。生とは闘いの合成運動なのだ」。この傾向を垂直軸に移すなら、天と地が地続きだということである。かつてコンキスタドールたちは新大陸に夢と希望と偉業を求めて旅立ったが、聖テレサなどカスティーリャの神秘家たちも天界に新境地を求めて飛翻した。これを聖と俗の不思議な混交と言い換えてもいい。ひたすら世俗的なものであったイタリア・ルネッサンスとスペイン黄金世紀との根本的な違いはここにあったと言えよう。

 第五に、対象と主体の未分化あるいは一体化である。換言すれば肉体と精神が相即不離の関係にあり、物質が精神性を帯び精神が物質性を帯びることである。つまり対象を距離をおいて客観的に眺めることがむつかしい。これがたとえば自然科学などの発展にとって大変な障害になっていることはもちろんである。しかし芸術の発端にあるものが、対象の生と主体の生との瞬間的かつ劇的な接触であるとするなら、そうした傾向がスペインの芸術家たちにとってプラスに働くであろうことは推測にかたくない。ゴヤの絵に見られるような即興性あるいは修正不可能性もここから生じる。
 以上、スペイン人の性格を五つほど挙げてみたが、お気付きのように、それらは互いに連関しており、そして結局は先に述べておいたように、スペイン人独特の  「生の理念」へと収斂していく。この意味で、オルテガが一九一〇年、スロアーガの絵に触発されつつ彼自身の生の哲学の序論を構築した『楽園のアダム』は、私にはむしろ格好のゴヤ論への入り口に思えてならないのだ。


 (「アサヒグラフ別冊美術特集 西洋編3 ゴヤ」朝日新聞社、 一九八八年)

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