佐々木孝 評論集

【魂の真実を描く難しさ(遠藤周作『イエスの生涯』評)】を最初から見る(自動でタイトルまで移動します。)

魂の真実を描く難しさ
(遠藤周作『イエスの生涯』評)

 「あとがき」によれば、本書は作者が先に発表した『死海のほとり』の創作ノートの一部に全面的な加筆と訂正を行って一書にまとめたものである。そういう意味で本書は『死海のほとり』と表裏一体をなすものであるが、しかしこれだけでも独立した作品として十分読めるし、またそう読むべきものであろう。題名からも察しられるように、本書は文字どおりキリストの伝記である。ナザレの一介の大工であったイエスがその仕事と家庭から離れてヨハネ教団に身を投じ、のちにそこを離れて愛と慰めの福音を宣べ伝え、ついに十字架につけられて死ぬまでを聖書、現代聖書学の諸成果を踏まえながら描いている。
 さて一読して真っ先に感じたのは、本書に対する評価とは別に、現代においてイエス伝を書くことの意味と、それが抱えているとてつもない困難さに関してであった。イエス伝は、言うまでもなく福音書そのものを嚆矢として多くの文学者、聖書学者などによって繰り返し書かれてきた。そしてそれら多くのイエス伝も、時代とともに幾多の変遷を経てきた。それを大雑把にいうと、一八世紀の理神論、そして一九世紀になってからはとくにシュトラウス、E・ルナンなどの影響のもとに、福音書に語られているできごとを、それまでのように信仰者の立場から超自然的にとらえる立場を捨て去り、それを神話として、またキリストを「比類なき人間」として解釈する傾向が強まってきたということである。その結果、現代聖書学の主流は、史的考証によってまぎれもない事実として認められるものと、原始キリスト教団の信徒たちが、キリストへの信仰ゆえに創作した部分とを峻別することに傾いている。しかしブルトマンのいうごとく、そうすることによって「聖書の中の史的イエスの姿はますます我々に遠く」なってきたわけである。
 前作『死海のほとり』の登場人物である聖書学者戸田の悲しみと不幸もそこに原因があった。しかし作者は、事実と創作をそのように腑分けすることの危険と不毛性を鋭く察知する。つまりそうした創作も「事実ではなかったが、魂の真実」であるという立場をとるのである。そしてこの事実と真実の即かず離れずの微妙な関係こそ、まさに聖書理解の、そして本書評価の決定的な鍵となるものであろう。

  イエス伝執筆のむつかしさもここにある。ブルトマンの嘆き、そして戸田の不幸を熟知している遠藤氏があえてイエス伝に取り組んだのも、その「ますます我々に遠く」なったイエスをわれわれにとって身近なものにするためであって、史的イエスの単なる再現でなかったことは前作『死海のほとり』の場合と同じである。つまり氏が目指したのは、氏自身にとってのキリスト、「魂の真実」としてのキリストであった。
  ところで遠藤氏は、その目指すイエス像を描ききることに成功したであろうか。氏が日本という風土、そして日本文学という文脈の中で、イエス伝執筆という大胆な試みにあえて挑戦した勇気に敬意を表しつつ、率直な感想をいわせてもらえば、氏の壮図はいささか中途半端なところに留まったのではないかと思われる。たとえばそれは、「私ごとき日本の小説家も」とか、「そこまでは東洋の一小説家にもわかるのである」といった言葉づかいの中にも現れている。しがし、完璧なイエス伝が人間に書けるはずがない以上、それはどだい無理な注文なのかもしれない。℃ゥ身も本書の最後のところで、「大事なことは人間の魂が欲した真実の世界である以上、べトレへム[事実ならざる創作]を真実として認めるのが本書に書かなかった私の今の立場である」といい、さらに第二、第三のイエス伝執筆の覚悟を披瀝している。
  さらにもう一点についても触れておかなければならない。イエスの復活、についてである。イエス伝最大の難所は、最終章「謎」で正しく指摘されているごとく、やはり復活である。なぜならこれこそ「無力なるイエス」が「力あるイエス」に逆転し、また、ぐうたらで弱虫、そして卑怯で卑劣な弟子たち(そしてわれわれ)が、救われる分岐点だからである。しかし復活には死が、それも完璧な死が先行しなければならなかった。弟子たちがイエスの復活を信じるためには、その前にイエスの死を認めなければならなかった。われわれにあっても、事情は同じではなかろうか。

  氏が好んで口にする「自分の体に合わない服」のようなキリスト教とか、幾度捨てようとしてもうるさくつきまとうキリストは、一度完璧な死を味わわなければならなかったのではないか。あるいは自己の内なるそのイエスの死を認知する必要があったのではないのか。イエス復活への激しい希求も、まさにその辛く苦しい死の認知を経ずしては生まれてこないからである。しかしこれは遠藤氏に対してというより評者を含めて読者自身にはね返ってくる恐ろしい問いかけと言った方がよいのかもしれない。

朝日ジャーナル
        一九七三年十二月二一日号

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