佐々木孝 評論集

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映画の力

 先日、本紙上でも紹介されたが、原町市の映画館朝日座の昭和三十一年(一九五六)から平成三年(一九九一年)までの全上映映画の記録が出版された。これは一見たんなる目録と思われるかも知れないが、それに先立つ約百ページの「わが青春の活動写真館」(二上英朗著)と相俟って、実に面白い地方文化史となり得ている。恥ずかしいことだが、『戦ふ兵隊』の亀井文夫監督が原町生まれであることをこの『朝日座全記録』で初めて知った。
 それはともかく、現今、映画はテレビその他娯楽の多様化のあおりを食らって、昔日のような輝きと勢いを失っている。しかしかつては、地方に住む若者たちにとって、映画館と本屋さんは、つまり映画鑑賞と読書は社会や世界へ大きく目を開く実に優れた学び舎だった。少なくとも私や同世代の仲間たちにとって、それらは学校以上に知的飢餓感を鎮め癒してくれたのである。
 たしかに現在、インターネットその他、眼もくらむような情報手段の発達によって、そう望めばリアルタイムで世界の鼓動を感じ取ることができる。しかし皮肉なことに、情報があまりに多量なため、人々はむしろその情報の海の中であっぷあっぷしているというのが現実である。
 外国への関心、興味という点に関しても、今の大学生たちのレベルは残念ながらむしろ退化していると言わなければならない。学生たちに、たとえば君はフランスについて、どんなイメージを持ち、どういうことに関心を持っているか、と聞いてもまともな答えはまず返ってこない。昔、一度もパリどころかヨーロッパにさえ行ったことのない人が、映画や小説によって、パリの路地裏のたたずまい、パン屋のおかみさんの金銭観や人生観までかなり具体的に想像できたことなど、今の学生たちに望むべくもないであろう。

 まだ見ぬ「ふらんす」に熱く焦がれた萩原朔太郎の時代ならいざ知らず、フランスなど今ならだれでも行ける。その意味で物理的な距離は昔と比較にならないほど近くなったが、しかし知的・文化的距離はむしろ遠くなったのではなかろうか。これはどういうことなのか。簡単に言えば、情報なり知識なりをいかに主体的に受け止めるか、あるいは想像力を駆使し膨らませて、対象をいかに自分に引き寄せるか、ということだろう。では想像力や創造力をいかに育むか、これはもう教育全体に及ぶ大問題で、簡便な処方箋などありえない。自分の目で見、自分の頭で考え、自分の心で感じる、そういう少年少女をじっくり育てること、それ以外のことは言葉は悪いが「屁」みたいなものである。
 学生にスペインを専門分野に選んだ理由を聞かれ、他人とは違う語学を勉強したかったからとか、スペインは日本を知るための格好な合わせ鏡だからなどと答えることもあったが、しかし、かつての日々、映画館の暗闇の中で、スペイン内戦に加わったG・クーパー演じるアメリカ人義勇兵とI・バークマン扮するスペイン娘の明日をも知らぬ恋に胸ときめかせ、あどけないマルセリーノ坊やの奇蹟譚に泣いたことなどがきっかけなのだ。
 むかし「人間学」の授業で、年二、三回ほどビデオで映画を見せたことがあるが、頭をしぼっての何時間もの講義が一編の名画にやすやすと超えられた苦い(?)経験もある。そうだ、どなたか世代間対話の実践として、定期的にお子さんたちと大型スクリーンでビデオを観る「名画鑑賞会」でも企画してみませんか。

「福島民報」、「サロン」、2003年8月1日 掲載

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