佐々木孝 評論集

長束修練院での稲賀先生

 かつての地番では広島県安佐郡祇園町長束一五五一番地、そして現在のそれでは広島市安佐南区長束西二―一―三十六番地にそのイエズス会修練院は立っている。私がこの修練院に修練士として、次いでユニオール(二年間の修練の後、初誓願を立て、その後一年間、哲学を学ぶ準備としてギリシア語やラテン語、キリスト教会史などを学ぶ期間)として生活したのはもう四十年近くも前(一九六二~六五年)の話である。実は一九九四年六月、この修練院を再訪した。その時はちょうど本館に当たる二階建ての日本家屋が補修工事の最中だったらしく…いや、ここはイエズス会という修道会と私の関係を長々とご説明する場所ではない。昔々このイエズス会修練院に稲賀先生が毎週来られて、ユニオールたち五、六人に源氏物語などを講義してくださったことこそ拙文の主題である。
 ユニオールたちにいつから「日本文学」の講義が始まったのか、果たして稲賀先生に前任者がいたのか、すべては遠い過去のことで確かめようがない。もちろん関係者とコンタクトをとれば分かることかも知れない。たとえば当時の同級生あるいは副院長とかに。しかし…ここでまた白状しなければならない、私自身すでにイエズス会士ではないということである(だからちょっと聞きにくい)。一年間のユニオール生活の後再び上京して上智大学の哲学科に復学し、二年間哲学を勉強するというのが通常のコースだが、私自身は哲学を終えた時点で早々と還俗してしまったのだ。またまた私自身の来歴に戻ってしまったが、しかしこの還俗はあながち稲賀先生と私との関係に無縁ではない。というのは、イエズス会退会後ほどなくして先生との文通が始まったのだが、少なくともその発端に佐々木は還俗して世間で果たしてうまく生きていけるかどうかという先生の温かな御心配がまずあったのでは、と推測されるからである。そして手紙の往復は互いに季節の挨拶程度のときもあれば、現今の大学問題にかかわる長めの手紙になることもあった(私自身その後私大でスペイン思想などを教えるようになった)が、先生の亡くなられる直前まで続いた。

  先ほど先生は修練院で「日本文学」の講義をされたと書いたが、しかしここで恥ずかしながらもうひとつ白状しなければならない。つまり私の中で先生の講義内容がもうまったく記憶として残っていないということである。講義題目がそれこそ『源氏』であったか『平家』であったかということさえ定かではないのだ。すなわち私にとって先生は先ずもって「作文」の師匠だったのである。それが先生のご発意だったのかそれとも修練院側からのお願いだったのか今では知る由もないが、いつのころからか文章を見てもらいたい者は先生に提出すれば翌週まで添削してくださるということとなった。今手元に残っているのは、その時書いた四つほどの幼い文章だが、先生はそれに実に丁寧に、しかも勇気を与える添削をしてくださった。こんな体験は初めてであった。その後まがりなりにも専門分野での論文や、さらには『青銅時代』という同人誌に創作めいたものを書くようになったその発端に、間違いなく先生のあの時の実に温かな励ましがあった。その後の教師生活の中で、まず学生のいい点をほめること、というのが私自身常に心がけたことだが、それは稲賀先生直伝の教えなのである。
  先生とは長束時代以後、実は一度も再会していない。だから私の記憶に残るのは、少し大きめの背広姿で (たぶん) 午後の小さな教室で静かに話される先生のお姿である。その背広はミシガン大時代に古着屋から大量に購入されたというような話を聞いたように思う。またその頃売出し中の竹西寛子さんに対する好意的な論評も聞いたような気がする。そして作文以外にも「島尾敏雄論」という評論めいた文章を提出したときには、現代文学は畑違いだから専門家に見てもらいましょうと、磯貝英夫先生にお願いしてくださったことも今ふいに思い出した。

 今から思えば、あの修練時代は私にとっては一種の「魂の兵役」であったが、その苦しい兵役の中での稲賀先生との出会いは一瞬吹き抜けるさわやかな緑風のように思いなせる。今回ご遺族にお返ししようと思う昭和五十八年のかなり長文のお手紙の中で、先生は珍しく「死」について話され、一族の病歴から判断してご自分は「その域」は越えたから次は八十八歳をめざす、と書かれていた。その目標値のはるか下で斃られたのは実に残念だが、しかしたくさんのすぐれた門下生を育てられ、たくさんの確かな研究業績を残されての死は、また見事なご一生と言わなければならない。この春私自身は教師生活に見切りをつけて田舎での年金生活に入る。もしかして先生は「佐々木君、また逃げるの?」といたずらっぽく笑われるかも知れない。だが私の筆名の富士貞房がスペイン語の「逃亡者」のもじりであることをご存知の先生は、それもしかたないかな、と許してくださると思う。

 (稲賀敬二先生追悼文集への寄稿、二〇〇二年)

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