佐々木孝 評論集

[追悼] 牛島さんのやさしさ

 正直言って、牛島さんとの最初の出会いは、けっして幸先のいいものとは思えなかった。というのは、私がウナムーノの『ドン・キホーテとサンチョの生涯』(一九七二年)をマタイス教授と共訳で出した際、書評紙(『読書新聞』?)で彼がその訳文の一部を引用しながらかなり辛辣な批評をしたのが最初の接触だったからだ。もしかするとまだどこかにそのときの切抜きが残っているかも知れない。それはともかく、今から考えると、もちろん訳文のまずさはその通りなのだが、牛島さんが敬愛するセルバンテスをさんざ虚仮にしたウナムーノその人が嫌いだったことも、その辛口批評の背景にあったのかも知れない。いずれにせよその後ながい間、学会などですれ違うことはあっても話を交わすことはなかった。それが急速に互いの距離をちぢめるようになったのは、一九八八年、私が静岡から五年ぶりに首都圏(?)に戻ることになったとき以来ではなかったか。つまり彼はそのとき、私の新しい勤め先には私の専門がないことに同情して、東京外語にスペイン思想の講座を用意してくれたのである。
 今でもはっきり覚えているのは、相手が教師でしかも初対面のときの癖で「牛島先生……」と言いかけると、「佐々木さん、互いに先生と呼ぶのはやめましょうよ」とまじめな顔で言われたことである。そういうことに彼は人一倍敏感だった。ともあれ、二人とも八王子市に住んでいたので、駅前の「くまざわ」という本屋さん二階の文庫本売り場が以後二人の待ち合わせ場所となった。夏も冬もきまって夕方の六時半、その売り場で互いの姿を見かけると、どちらからともなく「やあっ」と手を上げ、近くの飲み屋さんへと向かうのが恒例となった。つい一月前に行った店なのに、二人とも場所が分からなくなり、汗をぬぐいながらいまだ残照にむせ返る街中をあちこち歩き回った熱い夏の日もあった。

 思えばこの二人の客は、馬鹿でかい声で騒ぐでもなく、店の片隅でとても真面目な話題をめぐって楽しそうに話す扱い安い客ではなかったか。話題はもちろんその時々で変わったが、いちばん多かったのは、スペイン文学よりもむしろ現代日本文学についてであったように記憶している。「佐々木さん、今読んで感心する作家はだれ?」とよく聞かれた。たがいに「さん」呼ばわりすることは最後まで変わらず、他人から見ればいつまでも他人行儀と思われたかも知れないが、その距離が互いにとっていちばん自然であり、何でも遠慮なく話すことができた。だから三時間近く話し合っても、間が持てないとか疲れるということは一切なく、駅前で別れたあともいつも楽しい気分があとに残った。
 今あることを急に思い出して、階下に探し物をしてきた。そして未整理の本の山の中に目指すものを見つけることができた。牛島さんから貰った”Archivo de la Palabra”という三枚組のレコード盤である。調べてみるとこれは一九九〇年七月十四日、la Residencia de Estudiantes が創立八〇周年記念として出したもので、 アソリン、ヒメネス、ピオ・バロッハ、メネンデス・ピダル、ラモン・イ・カハル、ウナムーノ、オルテガなど二十八人の名だたる学者、詩人、小説家たちが自作を読み上げるという形式のレコード盤である。これの元となる録音がいつどのように行われたのかは、レコードに付いている八十五ページ程の大判の説明書を読めば分かるはずだが、実は貰いっぱなしで、ウナムーノとアソリン、オルテガなど二、三人の肉声しかまだ聞いていないのである。いい機会だ、そのうちじっくり聞いてみよう。それにしても二キロは優に越すこの重いお土産をいつもらったのだろう。彼からの手紙を調べてみたが、特定することはできない。おそらくは一九九〇年、彼がサバティカルで半年(一年?)スペインに滞在したときのことではなかったか。となると、レコード売り出しからさして日をおかずに購入し、私が貰ったのは彼が帰国した翌年一九九一年春のことだ。自分のためのものも購入したはずだから、都合四キロを越えるものを日本まで運んだことになる。私だったらだれのためであれ、こんな重いお土産は絶対に買わないのだが。

   このことに限らず、彼は思いがけないときに思いがけないことで温かな誘いをかけてくれた。一九九六年の「野間文芸翻訳賞」の時もそうである。カミロ・ホセ・セラ、ハビエル・ソログーレンなど錚々たる選考委員の中に私をもぐり込ませたのも彼だった。(そのときのパンフレットに載った彼の写真をデジカメで撮って引き伸ばし、一枚を奥様に差し上げ、もう一枚を私の部屋の本棚に飾っている。)いや、今となっては別に隠すことでもないので言うが、実はそれより少し前、東京外語のスタッフに加わらないか、と声をかけてくれたこともあった。結局それは私の方が早々に尻込みしたことで立ち消えになったが(そう言えば彼自身、世間的に考えれば一種の栄転に違いないT大学への誘いをことわったのもすぐその後あたりだったような気がする)。
 だが残念なことに、彼からのそうした温かな誘いにじゅうぶん応えられないうちに突然の死が彼を襲ってしまった。そのうちぜひ一緒に仕事しよう、オクタビオ・パスの『尼僧フワナもしくは信仰の罠』の共訳とか、『九十八年の世代作品集』の編纂とか、などと話し合ったこともいまでは懐かしい思い出になってしまった。彼が投げてよこしたボールをろくに返しもしないうちに彼が逝ってしまったからだ。そうだ、ボールで思い出したが、彼が愛知県の野球有名校(校名は忘れてしまった)のエースだったことは彼の周囲の人たちには有名だったらしいが、私が知ったのはつい最近のことであった。めったに自慢しない彼だったが、そのことだけは恥ずかしそうに自慢した。
 それにしても牛島さん、君が(あゝ初めて「君」と呼ばせてもらうよ)それまで何回か集中講義で行った沖縄のことを話すときの、あの嬉しそうな顔を今でもはっきり覚えている。だから君が最後の働き場所として沖縄を選んだとき、そして私自身も辞職と故郷への帰還を決めたとき、互いに心からの祝福をこめて乾杯したわけだ。

その後しばらく、君の新しい任地への旅立ちと、私の転居が重なって互いに多忙の日が続いた。だからそのどさくさの中でもらったはがきの中の、「三月に入ってちょっとひどい病気をしまして……体がおかしいままですが明後日出発します」という不吉な文面にもさして注意を払わなかったのだ。だからあのあまりに突然の訃報を信じることなどできるはずもなかった。だから私は今でも時折、あのインディゴブルーの海と光り輝く砂浜、そしてその上に果てしなく広がる真っ青な空の沖縄で、本土の学生より数段真剣な学生たちに囲まれて、最後の教師生活を存分に楽しんでいる君の姿をふと想像することがある。(実際には教壇に立つか立たないうちに入院のため東京にとんぼ返りしたというのに。)
 ともかく君はその早すぎる死を予想していたかのように最後の数年、すさまじいとしか言いようのないほどの仕事をこなした。まさに生き急いだとしか思えない。だから僕は、もう君と美味しいお酒をいっしょに飲めない寂しさを骨身に沁みて感じるけれど、君が残したたくさんの優れた仕事を読み返しながら、君の分までゆっくりゆっくり生きることにするよ。最後に、君があまり好きじゃないウナムーノの言葉を、今の君の言葉としてここに書いておきたい。私もいつかそう言えることを願って。

“Aqui os dejo mi alma-libro,/ hombre-mundo verdadero.
Cuando vibres todo entero/soy yo,lector,que en ti vibro”
(ここに私の魂なる書物を、人間を、真実の世界を残す。[だから]読者よ、
 君の全身が[感動で]震えるとき、君の中で震えているのは、この私だ。)

※文中、牛島さんの母校を野球有名校などと書いたが、その後牛島夫人からのお手紙で、正確には岡崎高校という進学校であることを知った。当時(昭和三十三年)の朝日新聞地方版の切り抜きもいただいたが、そこにはこう書かれている。「主戦牛島は頭脳投手で、サイドからのシュートとカーブが武器。これでコンスタントな力さえつけば十分」。残念ながらこの年、当時の強豪中京商業に負けて牛島さんの甲子園への夢は絶たれた。今年は天国から球児たちの熱戦を見守っているに違いない。(03/8/16)

『イスパニア図書』第6号収載、行路社刊

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