佐々木孝 評論集

「ひと夏の体験」への反響

 以下のものは、先日アップした「ひと夏の体験(正統をめぐる論争)」に対して、その日のうちに友人たちから寄せられた感想やらコメントである。(伝言板に書かないまでも)いろんな方がいろんな感想をお持ちであること、しかもそれが日頃から考え、反芻しておられるものであることがはっきり分かった。そしてそうした意見が瞬時に集まり交差する現実にはじめて立会い、インターネットの威力というか効果を改めて実感した。そのまま感想が電磁空間に消えていくのはもったいないと思い、以下そのままの形でここに再録させていただくことにした。

●お暇の時にぜひ読んでください(テイボー) 2003/02/10 (月) 19:53
 今日「雑文集」に「ひと夏の体験」という文章をアップしました。これは1997年の夏、そのころ勤めていた大学に持ち上がった大事件(?)に果敢に立ち向かった(はずの)記録ですが、結果は大山鳴動鼠一匹でした。でも今日改めて読み直してみて、改めて腹が立ってきました。私にとって、教育の根幹に関わる問題が現にそこにあったのですが、誰も気付かないか、気付かないふりをしていたと苦い気持ちで思い返しています。 大学教師を辞めようと思い始めたのはあのころからだったような気がします。そしていつかは野に下って言いたいことをきっちり言いつづけていこう、と決心したはずですが、今までのところ、その決意を実行しないままここまで来ました。今年はその原点に戻って、大学のことや教育のこと、あるいは既成宗教の組織の問題など、率直に発言していこうと思っています。その前に今までの記録を少しずつアップしていくつもりです。驚くようなことがたくさんありました。ただそれらを公表していくのは、個人的な攻撃とかリベンジなどのためでないことはもちろんです。今考えておかなければと思うことを、多くの人と一緒に考えていきたいからです。みなさんからのご意見や応援を期待しています。

●えにしださんから 2003/02/11 (火) 00:18
テイボーさん、「ひと夏の体験」、拝読しました。文字を追いながら、私も腹が立ってきました。同時にまた、愚劣なものを目前にして、やり過ごすことなく、あえて抗議されたテイボーさんに心動かされました。ほんと、生意気な言い方で申し訳ないのですが、ご立派だと思います!
 まったく、「組織」というものがあるところ、どこにでも起こりうる腐敗なのでしょうが、キリスト教精神を謳った大学もその例外ではないということですね。余計に暗澹とさせられます。自分たちが真理を「追求(追究)」する者である、というところから、知らず知らずに、真理を「所有」する者であるという思いこみにずれていき、他者を不寛容に抑圧し、排除するというパターンですね。出来の悪い政治のひな形になってしまっています。水で薄められてはいても、要するに、「やつは敵だ、敵を殺せ」(埴谷雄高)というわけなのでしょう。
 それと、どこにでもいるのですね。あえて抗議の声をあげた者に対して、「年長者」ぶって「忠告」してくる人が。自律的に考え、自律的に実践する者を、権威に依拠した他律的な人物が「もっと大人になれ」と「たしなめる」という構図です。判断の基準がずれています。自分の頭で考えることができない自分を「大人」だと思っているのでしょう。  倫理的な堕落といってしまえば、それまでですが、何がそうさせるのか、何がそれをおしとどめるのか、無駄に見えようがどうしようが、考え続け、考えるということ、そのことを実践していくしかないのでしょうか? 真理と寛容・不寛容の問題、超越的な何かへの思いと組織の問題などなど、考え込んでしまいます。

●しげきさんから 2003/02/11 (火) 09:08
「正統性を正当化する」
ある宗教やイデオロギーを守る団体・組織には必ずあるものなんでしょう。プロテスタントの世界でも、それに耐えきれず出て行った牧師を、何人か友人に持っています。カトリックなら、尚一層その傾向は強いのではないでしょうか。特に、学校という組織はそうだと思います。「教育」つまり「教え込まねば」という意識がありますから。
話しは少しずれるかも知れませんが、プロテスタント系の中学に通っていた頃、朝礼で時々不快な思いをしたことがあります。それは、「黙祷」をしている時、「目をつむっていないかどうか」をチェックして廻る、或る先生の足音がしていたことです。勿論、私は目をつむっていましたから先生が誰なのかは知りません。ただ、その時の黙祷をじゃまされた不快感と、不信感が残っているだけです。

●ゆうさんから  2003/02/11 (火) 10:06
「ひと夏の体験」拝読しました。
マルクスが「マルクス主義者」ではなかったように、イエスも「キリスト教徒」ではなかった。例外はあるでしょうが、「主義者」たちの多くはデマゴーグに思えてしかたがありません。

●Cafecriolloさんから  2003/02/11 (火) 11:18
拝読しました。 メキシコの批評家アルフォンソ・レイェスは、カトリックの根底にある「普遍」の意味においてのみこれを評価し、中世の聖職者間のネットワークなどを範例としながら「コスモポリティスム」へと向かう世界を評価しました。しかし、「普遍」の概念がドグマ化したとき、服従と均一化を強いるのみの暗澹たる世界が待っているのみでしょう。同じくレイェスの本のタイトルで言うなら、隣人に「共感」を寄せながらも彼我の「差異」を認識して共棲する他ないのだと思います。
 実際に経済システムにおける世界の均一化、即ち「グローバリゼーション」という名の「コスモポリティスム」が進行するのと同時に僕たちが見たものは、宗教的原理主義と政治的原理主義(保守主義、反動)の台頭で、これらには他者への「共感」も「差異」の認識も見られないのが悲しいことです。ティボーさんの「ひと夏の経験」は確実に現在イラクやアメリカ合衆国で起こっていることと通底する問題だと思います。 でも一方で、レイェス的「共感と差異」に基づく連帯への希望もなくはありません。エドワード・サイードは心情や感情によるものではなく、論理を基盤として連帯したりしなかったりする少数者のネットワークに希望を見出しています。近頃やっと翻訳のでたアントニオ・ネグリ/マイケル・ハートマンの『〈帝国〉』(以文社)も、〈帝国〉というシステムの中にある複数性(マルチチュード)の可能性を探っている様子。 
多様な者たちがただ無関心に蠢いているだけでは、混沌とするだけでしょうから、レイェス的な「共感」が必要になるのでしょう。レイェスとオルテガはついには喧嘩別れするのですが、今回は、レイェス研究者からオルテガ研究者へ「共感」の意の表明として。

●ゆめこさんから  2003/02/12 (水) 00:17
「ネットってすごいですね」
 こんばんは。
私も一夏の・・・を読ませていただき、ココで皆さんのコメントも読ませて頂きました。学内(関係者)だけで終わってしまいがちな内容・・・でも、このようにネットを通していろんな意見を得る、最近はすごい時代になってきたなーって思いました。
(年寄りくさい??(爆))
考えてみたら、ネットって住むところも職業も年齢も違う本来出会わないだろうという人と出会えるってのが利点ですよね。関係者では意見が一様でも、少し離れてみたらいろんな意見や考え方があるってことがわかるってなもんです。
 私もネットとかしなければ、幼なじみや学生時代の友達以外では同業者くらいしか出会いはなかったでしょう。あ、なんか話がずれてしまいましたが・・・(>_<)

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