佐々木孝 評論集

フランコ以後の新しい日々

 四月十一日、わが国の各新聞は、スぺイン政府が九日、ついにスぺイン共産党公認に踏み切ったことを一斉に報じた。また約四O年のあいだ、ソビエトで亡命生活を送りながらも、いまなおかくしゃくたる八一歳のドロレス・イバルリ議長の帰国の間近いことも写真入りで報道された。これで六月上旬に予定されている総選挙がようやく西欧型民主主義のもとで行われることになったわけである。
 フランコの死から数えて一八か月目のこの大きな変化は、受けとる人の立場によって、その感慨もさまざまであろう。こうした趨勢に向かうことはもはや時間の問題であったにせよ、とうとうここまで来たか、という意外さもぬぐいきれない。
 それにしても、スぺインという国は不思議な国である。他の国とはどこかテンポがずれている。あまりにも早すぎるか、あるいはあまりにも遅すぎる。というより、時期尚早と時期遅れが奇妙に隣合わせになっていると言ってもよい。
 スぺイン内乱では、のちに第二次世界大戦において顕在化する思想戦争のヒナ型を用意したかと思えば、今度は逆に、時計の針を逆に回したかのように、王制に戻ったりする。あるいは、スぺインとは無縁に思える自由主義という言葉が、実はスぺイン語に起源を持っていたり、左翼闘争の戦術であるゲリラがもともとは革新的ナポレオンに対する保守的スぺイン民衆の戦術として始まったものであったり、どうもやることなすこと他とはひと昧もふた昧も違っている。
 ともあれ、当のスぺイン人たちは、共産党公認をどう受け取っているであろうか。先日もスぺインから帰ったばかりの、あるスぺイン人に、共産党公認をどう思うかとたずねたところ、それには直接答えないで、次のような小話をしてくれた。だれの意志かは知らないが、ある日突然、よみがえった(今年、四月九日はまさに復活祭前日に当たっていた)フランコ総統は、共産党公認などというあまりの激変ぶりに驚倒して、もう一度死んでしまったという小話。文章にしてしまうと面白くもおかしくもなくなってしまうが、このスぺイン人は実に面白く話してくれた。
 おそらくいまスぺインのあらゆる場所で、これに似た小話が大星生産されていることであろう。これは何もフランコの死後、言論の自由が大幅に認められだしたから、というわけではなく、むしろその反対である。つまりフランコ時代の方に、傑作が多かったのではないかと思われる。活字になることは、なるほど少なかったが、口伝えに語りつがれた傑作、有名作品が数多く存在した。
 この点、スぺイン人は、実に鋭いセンスを持ち合わせている。小話好き、格言好きは、サンチョ・パンサ以来のスぺイン民衆の偉大な伝統である。しかし、そのセンス、つまり政治をひとつのドラマに仕立てあげる能力は、必ずしも政治的有効牲につながっていかないところが、またスぺインらしいところであろう。政治をひとつの人間ドラマに見立てるということは、自分を観客、傍観者の位置におくことだからである。
 一六世紀から一七世紀にかけてのスぺイン黄金世紀の大劇作家、カルデロン・デ・ラ・バルカにも『人生は夢』『世界は大劇場』という作品があるが、古来、スぺイン人には、人生を夢と見、劇と見る傾向が強く、政治もまた例外ではない。劇には善玉だけではなく悪玉も登場しなければ面白くない。政治悪や犯罪人に対する一種の寛容、おおらかさはこのことと無縁ではない。
 ということは、これを別の角度から見るなら、政治がイデオロギーや政策よりも、むしろ人物中心に展開されるということである。カルリスモ(力ルロス主義)、マウリスモ(マウラ主議)、フランキスモ(フランコ主義)というぐあいに。現国王フワン・カルロス時代は何となるか。まさかフワニスモにもカルリスモにもなるまい。
 前者にはドンフワニスモ(色事師ドン・フワン主義)という偉大な系譜がすでに存在し後者には現国王の五代前に当たるフェルナンド十世と王位継承をめぐって争った(正確にはフェルナンド七世の死後、その継承者イサべル二世擁立派と争った)ドン・カルロスの一派にカルリスタという表現があっていわば宿敵を指す言葉だからである。
 いや、いま述べたような理由は、次の事実に比べればまったく二義的なもの、冗談のようなものにすぎない。というのは、スぺインが従来の人物中心主義的政治を、もはや展開できなくなったという、スぺイン社会そのものの変質の方が重要だからである。つまり、人物中心から言うなれば制度中心の政治に向かわざるをえないという事態の到来である。
ごく最近まで、と言うより今もなお、スぺイン社会は人物中心に動いてきた。たとえば大臣が変われば守衛まで変わるというぐあいに。また、スぺインを旅したことのある人なら、だれでも気づいたであろうが、銀行なら銀行に入るとする。日本なら窓口に座っている行員がすべてを処理するということはまずなく、たいていはその背後にひかえているそれぞれの係りのところに通帳なり何なりが回されていく。つまり、職掌分担がはっきりしているわけだが、スぺインではたとえ大きな銀行でも、窓口にいる行員が一手に仕事を処理するという事態にぶつかる。その窓口に何人、客が並ぼうがおかまいなしにである。
 これをもし強引に解釈するとするなら、スぺイン人には人間を、その役割においてとらえるという視点が、なかなかとりにくいということである。ウナムーノ流に表現するなら、人間を「肉と骨をそなえた」具体的かつ全一的存在とみなす傾向の強いスぺイン人は、世界あるいは現実を客観視することを苦手とするばかりでなく、人間を非人称的にとり扱うことに根強い抵抗感を持っているわけである。
 こういう社会に、官僚機構が発達する余地は少ない。一九世紀後半以来、スぺインの再生を目指す改革論者たちによって、スぺインの宿痾として批判されてきた領袖政治、すなわち地方ボスたちによる政治体制という問題も淵源はここにある。
 しかし、現代世界の政治の仕組みは、こうした人物中心主義ではどうにもならないところにきている。政治に限らず、あらゆる分野から大者が消えてしまったのも、そのためである。スぺインがいま向かおうとしている議会制民主主義は、乱暴に言い切ってしまえば人物(人間とは言うまい)よりも制度が優先する機構である。とするとそれは、スぺイン人気質からすると、かなり異質なものであるはずである。
 
 しかし、それにもかかわらず、そこに向かわなければならないところに、スぺインにとって予測しがたいむずかしさが横たわっている。EC加入、その他をめぐる国際情勢という、いわば外からの要請もさることながら、それよりもむしろ内部からの要請の方が重大であろう。
こうした事態に立ちいたった、もっとも大きな要因の一つは、スぺイン社会の中産階級化ではないかと思われる。同時に、スぺインが近代以降、他のヨーロッパ諸国から大きく水をあけられた、ということの裏には、この中産階級の末成熟、あるいは弱体があったことにも異論はないであろう。
 ついこのあいだ、ルイス・ブニュエル監督の『哀しみのトリスターナ』を見た。劇場公開のときは見逃していたものだが、今回テレビではじめて見て、いかにも一九世紀後半のスぺイン社会の縮図を見るようで面白かった。
 そこには、気位ばかり高くて働くことをしない貧乏な金持(ウメムーノの小説に『貧しい金持、もしくは生の喜劇的感情』という短編がある)が登場するが、私には彼がドン・キホーテと重なって見えて仕方がなかった。いわば極度に俗化したドン・キホーテの姿が二重写しになっていると思われた。物質的には恵まれないがゆえに、いよいよ精神的には貴族たらざるをえない(逆もまた真ではあるが)ような仕組みがそこにはあった。
 セルバンテスが『ドン・キホーテ』劈頭で、まずこの田舎郷士の貧しい生活状況の描写を行っているのも、この意味で実に象徴的である。
「昼は羊肉よりも牛肉の勝った煮込み、たいていの晩は昼の残り肉へ玉ねぎなど刻みこんだサラダ、土曜日に塩豚の玉子あえ、金曜日にレンズ豆、日躍だと小鳩の一皿ぐらいそえて、それだけに収入の四分の三が消えた」(永田寛定訳)。エンゲル系数75%のおそろしく貧しい生活ぶりである。
 これが世界に冠たるスぺイン大帝国時代のことなのであるから、他は推して知るべしである。ドン・キホーテの時代といえば、スぺインにとって政治的な意味での黄金時代であり、新大陸から莫大な量の金や銀が本国に流れこんだ時代であるが、それらは主にジェノバ人金融業者の手に渡ってしまって、スぺイン人自身の生活をうるおすことはまずなかった。だから『ドン・キホーテ』に限らず、当時の文学作品に描かれているのは、社会の底辺にうごめくピカロ(悪者)たちなのだ。

 しかし、皮肉なことに、約四O年にも及ぶフランコ独裁政権下に、スぺイン社会は物質的に豊かになり、急速に中産階級化が進んだのである。中産階級とは何ぞや、という問題に深入りすれば、いろいろむずかしいことが出てくるであろうが、その大きな特徴の一つが、安定化指向であるといってもまちがいはなかろう。
 ということはつまり、先ほどの話に戻せば、人物中心よりも制度中心的な指向が強いということである。大臣の首がすげ変われば、守衛まで変わるというのであれば、たまったものではない。だから人間全体よりも、その部分である役割を大事にしようということになる。人物よりも制度、人間よりも機械を信用すべしというわけである。
 こうした変化は、実はフランコ存命中から徐々に進行していた。その意味でとりわけ象徴的なのは、在俗修道会「オプス・デイ(神の御業の意)」を中心とするテクノクラートが、一九五九年以降、閣僚の中にも起用されはじめたことであろう。フランコ体制にとっても、彼らを起用せざるをえない事態が生じたのである。彼らはいわば新品種のスぺイン人である。
 一九七四年の春、短期間、スぺインに滞在したが、そのときのことで不思議と印象に残っているのは、とあるホテルのロビーで、七、八人のビジネスマン風の一団が、しごく真面目な顔つきで商談らしきものをしていた光景である。それは話好きのスぺイン人が、寄り合いで歓談するときの雰囲気とはまったく異質の、いうなれば実務一点ばりの空気が流れていて意外の感にうたれたことだ。金融機関、商社などあらゆるところに、いまこうした新品種のスぺイン人が増加している。
 現代イギリスのジャーナリスト、ロナルド・フレーザーは、その著『太陽海岸の一山村(邦訳名『タホス村繁盛記』、高橋敦子訳、平凡社)において、飢えと負困の一山村が五〇年代後半から一転して観光地へと豊かに変貌していくさまを、土地のあらゆる階層の人たちから聞き書きしていて興味深い。人間的魅力に欠けていたにしても、まずたいていのスぺイン人が、フランコ総統になにがしかの恩誼を感じているのも無理はなかろう。

  現代スぺイン最大の文献学者、歴史家メネンデス・ビダル(一八六九~一九六八)は、その著『歴史の中のスぺイン人』(邦訳名『スぺイン精神史序説』、拙訳、法政大学出版局)の中で、スぺイン人の基礎的性格として質素さをあげ、それがスぺイン出身のローマのストア哲学者セネカ以来のスぺイン人の生活信条である、と言っている。
 しかし、すべて物事には二面性がある。つまり質素さも、ストア哲学風の、ストイックな無感動無関心(アパティア)に通じると同時に、へたをするとそれの俗化したかたち、すなわち無気力や怠惰にも通じる。スぺイン人は艱難辛苦に対しては「かまうものか(no importa)」という敢闘精神を発揮するが、日々の労働に対しては、「俺の知ったことか(no me importa)」と怠惰に流れる、ということである。
 また黄金世紀の偉大な文人グラシアン(一六〇一~一六五八)は、「忍耐がべルギー人の長所であるように、性急さがスぺイン人の欠点である。前者は物事を仕上げる(acabar)が後者はケリをつける(acabar con)。つまり困難に打ち克つまでは汗を流すが、克服することで満定してしまう。究極的な勝利を獲得することを知らないのである」と言っている。
 ところが、日々の労働をこつこつと果たし、物事を仕上げるスぺイン人の数が、増加してきたのである。もしかすると、スぺイン人の良き(悪しき?)習慣であるシエスタも、そのうちなくなってしまうかも知れない。
 こうした変化は、スぺインをとりまく経済状況の変化に由来するものであることは、前述したとおりであるが、しかし、どうもそれだけではなさそうだ。ここでもう一つ大きな要因として、スぺインの非カスティーリャ化を挙げなければならないであろう。財界のトップ・クラスや中堅などが、どの地方の出身者によって多数を占められているか、残念ながら手もとにその資料はないが、しかし、そのかなりの部分が非力スティーリャ人、とりわけカタルーニャやバスクなど地方出身者ではないかと推察される。

 かつてマドリード大学の総長をつとめ、わが国にもその著作の翻訳があるライン・エントラルゴは、『何をスぺインと呼ぶか』の中で、スぺイン社会の変質の要因をさぐっている。 まず彼は、一般に四五歳以下の人たち(この本が書かれたのは一九七一年であるから、現在では五一歳以下ということになる。つまり内戦終了時に一五歳前後であった人たち)の中に生活の快適さや楽しみへの志向が、急速に増大していることを指摘している。前述した中産階級化である。そして同時に、偉大な理想や偉業をめぐっての「大言壮語」に対する軽蔑、もしくは警戒心が浸透してきたことを指摘している。
 続いて彼は、スぺインの非カスティリャ化にも触れて、カタルーニャ、ガリシア、バスクなど、諸地方の人々の特徴を挙げている。ここでそれらをいちいち紹介することはできないが、とりあえずカタルーニャ人のことだけ触れておこう。
 しかし、取り急ぎ断っておかなければならないのは、スぺインにおいて諸地方が持つ特質なり重要性は、わが国とは比較にならないほど大きい比重を占めているということである。九州人は、関西人は、と言うときとはおのずと意味が違っている。筆者のわずかな体験からでも、スぺインのどこの出身であるかによって、そのスぺイン人の大まかな特徴がすでに予測され、例外はあっても、それがおおよそは当たっているということである。
 ところでラインは、現代カタルーニャを代表する知識人たち、たとえば哲学者フェラテール・モラ(一九一二~)や、わが国にもその著作の翻訳がある(小林一宏訳『スぺイン』、岩波書店)ビセンス・ビーべス(一九一O~一九六O)などのカタルーニャ論を援用しているわけだが、簡単に言ってしまえば、カタルーニャ人の際立った特徴は、体験と慎重さに裏づけされた良識である。つまり生活にまつわる諸現実を、自分たちの即座の利害に還元するその実利感覚である。これはカスティーリャ的なキホティスモ(ドン・キホーテ主義)、現実的利害を度外視して理想につき進む傾向、とはまったく対照的な気質と言えよう。
 
 筆者などは長いあいだ、カスティーリャ人(オルテガなどがそうである)あるいはカスティーリャ化したスぺイン人(ウナムーノはバスク出身だが、カスティーリャ人以上にカズティーリャの魂に近づいた)たちのスぺイン論に親しんできたわけだが、前述のビーベスのスぺイン史解釈を読むと、そこにはウナムーノなどとは明らかに異質な思想が脈打っているのを知って、愕然としたとき言っても大仰ではない。
 ビーべスによれば、ウナムーノやオルテガは歴史との触れ合いを求めることをせず、「ごく個人的であると同時に永遠的でもあったひとつの体験を通してカスティーリャの心に迫っていった」(前掲書)が、「その体験からは現実に根ざさないひとつのカスティーリャ観が生まれ、これは同世代のすべての人々と、とくに彼らの追従者達によって今日に至るまで依然として生き続けている」ということになる。
 たとえば一九五五年ごろに始まった、二人の歴史家、すなわちA・カストロとサンチェス・アルボルノースのスぺイン史をめぐる論争も、「現実に根ざさないひとつのカスティーリャ観」から出発した論争というわけだ。つまりこの二人は、経済、政治、文化の三つの面でヨーロッパ文明がたどった資本主義、自由主義、合理主義への道を、スぺインはなにか本質的な欠陥ゆえに歩めないということ、またそれがカスティーリャの歴史にとって必然であったという点では奇妙に一致している。
 しかし、とビーべスは言う、もしも月並みな言葉や決まり文句と手を切り(「大言付語」に対する彼のカタルーニャ人的警戒心の面目躍如といったところだ)、代わって人間、貧困、中央と地方、個人生産と国家収入など、スぺイン史の基礎的要素をめぐって間題提起がなされるならば、それらが地中海に面した他の国々の体験したものと、さほどかけ離れていないことが分かるであろう、と述べたあと次のように続けている。
 
 「(そうである以上)、果たしてサンチェス・アルボルノースの言うようにスぺインは歴史の謎なのか、または一方のカストロの断定するようにスぺイン史は生を破壊しながらの生であるのか否かは、はなはだ疑問となってくる。これらはスぺインという地中海世界の一メンバーを見る観方としてあまりにウナムーノ的苦悶に満ちている。スぺインが抱えている問題、それはごく具体的でかつ明確、そしていつの時代にも共通する次のことにほかならない。すなわち、いかにすれば慎しやかながらも人間に相応しい生活をそこに住む三OOO万の人間に与えることができるかという問題である」。
 明快きわまりないスぺイン論である。彼にかかれば、堀田善衛氏が大作『ゴヤ』(新潮社)の冒頭で述べた言葉、すなわち「何かが起こるようでいて、結果としては、あたかも何事も起こらなかったかのような結果になるのは、スぺイン史の謎とでも言うべきものであろう」という名文句も、ウナムーノ的、アルボルノース的韜晦ということになりかねない。
 それはともかくとして、ビーべスの指摘で鋭く響いてくるのは、スぺインの地中海的解釈である。アレクサンドル・デュマの「アフリカはピレネーからはじまる」という言葉を待つまでもなく、従来スぺインとヨーロッパとのあいだの断絶があまりにも強調されすぎてきたきらいがある。つまりスぺインからすれば、ピレネー山脈越しにヨーロッパを見るという視点がつねに支配的であった、ということだ。しかし、その視点を南に、地中海に向けてみたらどうなるか。これは地中海に面するバルセロナに生を享けたビーべスらしい発想である。
 ここで思い起こされるのは、一八九八年、ウナムーノとアンへル・ガ二ベットとのあいだに取り交わされた公開往復書簡『スぺインの未来』のことである。ガ二ベットは、ウナムーノのあまりにもカスティーリャ的スぺイン論に対して、グラナダ生まれの彼らしく地中海に、アフリカに眼を向けることの必要性を指摘している。

  残念なことに同じ年、すなわち米西戦争敗北の年にガ二ベットが任地ラトビアのリガを流れるドビナ川で、わずか三三歳の若い生命を自ら断ったことによって、両者の対話は中断された。しかし、もしこの二人のすぐれたスぺイン知識人による対話が、いま少し続けられていたら、その後のスぺインの歴史は実際にそうあったものとは違っていたかも知れないし、今日のスぺイン人にとっても進路決定の良き指針たりえたであろう。
 一九二四年、ウナムーノは独裁者プリモ・デ・リべラの忌憚に触れ、カナリア群島の一フエルテべントゥーラ島に流されるが、しかし、視界をさえぎるものとてない大海原の中で、彼はひたすらカスティーリャを、茫々たる陸の海カスティーリャの高原に激しい望郷の念を感じる。彼はまたしてもわれらの海なる地中海とすれちがってしまうのである。
ともあれ、ビーべスの指摘するように、スぺインを地中海から見直すという視点は、スぺイン自身の今後にとっても重要かつ必須のものとなるであろう。
 わが国でも最近、この地中海文化を総合的に研究しようという気運が高まり、美術、建築、哲学、科学思想史など、それこそありとあらゆる分野の専門家たちが集まって、学会を作ることになっている。この稿が印刷にまわるころには、すでに「地中海学会」なる面白い学会が発足しているはずである。
 これは従来のように、いわば北からのみヨーロッパを見るのではなく、あるいはたて割り(専門別)、国別の視点からのみヨーロッパを見るのではなく、発起人の一人、美術史家の中山公男氏の言葉を借りれば、「明晰、豊醇、駘蕩」の地中海からヨ―ロッパを見直してみよう、という意図のもとに作られる学会である。こうした接近は、本来ならとっくに行われていなければならなかったはずのものであるが、不思議と行われてこなかった。
 ことスぺインに関しても、地中海的スぺインは、ともするとエキゾシチズムの面からのみ眺められ、ヨーロッパとの連関のうちに見られることは少なかった。
 しかし、すでに本誌二月号のクラシック・ライブラリー『ドン・キホーテ』でも述べておいたとおり、イスラムやユダヤとの関係抜きに、このスぺイン最高の古典解釈ももはや成り立たないとするならば、スぺインに対してもビーべスの言う地中海的視点は今後、いっそう重要性を増すであろう。

 だが、こうした意味でのスぺインのヨ―ロッパ化、つまり従来の視点に地中海的視点を加味してのヨーロッパ化だけで充分であろうか。私にはビーべス的見解の正当性を認めたうえで、しかもなお、ウナムーノ的見解の豊饒性を捨てがたい。ウナムーノはスぺイン再生をめぐって「近代的であること」と「ヨーロッパ的であること」という二つの要請が、金科玉条のように叫ばれた時代にあって、自分ならむしろ「古代的であること」と「アフリ力的であること」を選ぶと言ってのけた、どちらかと言えばスぺインの特殊性を強調した思想家である。
 彼はスぺインのヨーロッパ化に反抗したばかりでなく、さらに進んでヨーロッパのスぺイン化さえ主張した。彼が言うには、スぺインが挫折したのは、スぺインがおのれの独自性に踏みとどまったからではなく、むしろその反対に、それに徹し切らなかったからである。
 それならウナムーノは頑迷固陋な伝統墨守主義を主張したのであろうか。いやそうではない。彼は個人にとっても、あるいは社会や民族にとっても、真のアイデンティティ確立の不変の法則、すなわち個を通じて普遍に至る道を摸索したのである。ただ、不幸なのは彼の主張が伝統主義や国粋主義と混同される危険とつねに隣り合わせにある、ということである。
 それでは、特殊から普遍につき抜ける道はないのか。困難な道ではあるが、あり得ると私は思う。つまり、それは周囲に眼を閉ざしたやみくもな自己主張ではなく、心と眼を大きく開いて、的確なパースぺクティブの中での自己の特殊性の涵養である。言葉を換えるなら、外発的な特殊性を鎧っての自己保存に努めるのではなく、むしろ内発的な自己発展である。
 伝統のうちに生きることと、伝統主義を守ることとは、同じことではない。伝統主義は一種の仮装にすぎない。スぺインがフランコの死とともに、反共、反自由思想などなど幾重にもかさねられた仮装を脱ぎすてはじめたいま、今度は逆に近代(現代)ヨーロッパというやはり仮装になりかねないものを外発的に身につけるとしたら、スぺインの将来は物質的には豊かだが、精神的には貧しいものになる危険なきにしもあらずである。

 それなら、先に指摘しておいたスぺイン社会そのものの変質と、以上述べてきたことと、今後どうかかわっていくのか。正直言って分からない、というのが本音である。ただ言えることは、そうした変質がたんに外発的な仮装でなく、真に内発的なものであるなら、それはスぺインにとって、決して不幸な変質ではない、ということである。個人にとっても、民族にとっても絶対不変の生き方などあり得ない。なぜなら、人間の生は絶えざる実体変化だからである。
 性急に上すべりに、西欧型民主主義を取り入れたわれわれにとって、もしスペインの今後の歩みが貴重な教訓になりうるとするなら、それはスペインがスペイン型民主主義を創りあげたときであろう。この点に関して、筆者は楽観的であるが、なお今後のスペインの動向に注目していきたい。

 
       (「月刊エコノミスト」、1977年6月号)

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