佐々木孝 評論集

訳者登場『情熱の構造』

  翻訳者が(残念ながら)毎度はっきりした翻訳の意図を持っているわけではない。しかし本書の場合はすこぶる明快であった。つまりスペインあるいはもっと具体的にはスペイン人とは何か、を簡便に理解するにはまことに適切なものに思われたからである。ことヨーロッパに限ってみても、たとえばフランス人、イギリス人に関しては、そこに誤解や思い込みが混じるとはいえ、どうにか共通の認識が成立する。だがスペイン人に関しては実に曖昧模糊としていて、光と影の国、情熱の民、と言われてもどうもぴんとこない。本書のよいところは、われわれにとって比較的情報量の多いイギリス人やフランス人と比較対照しながら、スペイン人について語ってくれている点であろう。
  ヨーロッパの辺境に位置するスペインは、古来自己のアイデンティティの問題、すなわちスペインとは何か、スペイン人とは何者か、を絶えず自問してきた。しかし同じく辺境の国たる日本同様、とかく自国を特殊視する傾向、つまりたかだか歴史の産物に過ぎないものを絶対視する、あるいは実体化する傾向なきにしもあらずであった。その点、著者マダリアーガの立場ははっきりしている。つまり「国民性」という従来真面目に学問的対象にされてこなかったもの(国民性の研究が、たとえばR・べネディクトの『菊と刀』のように、主として敵国理解のために脚光を浴びはじめるのは一九四〇年以後である)の存在を肯定したうえで(ただし国民性形成の原因については言及せず)、それをつとめて客観的に比較し相対化しているのだ。
  といって本書の面白さは、いわゆる学問的な、つまり専門外の領域に立ち入ることを極力避ける、科学的な論考にあるのではなく、マジメな社会学者や心理学者からはひんしゅくを買うかも知れない、実に大胆というか思いきった意見が開陳されているところにある。たとえば、「イギリス人は歩きながら考え、フランス人は考えたあとで走り出し、スペイン人は走ったあとで考える」などに類する名文句が随所にあり、また、イギリス人を行動の民族、フランス人を思考の民族、スペイン人を情熱の民族とし、それぞれのモットーをフェアプレー、法の精神、名誉心とするなど、あまりに見事すぎて、つい眉に唾をつけたくなるところもある。もちろん彼とて、そうした図式を固定的に考えているのではなく、それぞれの民族の「心理的重心」を問題にしてはいるのだが。 

  ところで本書はもともとフランス語と英語でなされた講演の草稿である(一九二六、二七年、於ジュネーブ)。著者自身によって訳されたスペイン語版に続いて英語版、フランス語版が出版され、以後それぞれの国で多くの読者を獲得できたのは、ときに断定的な物言いがあったにしても、考察の対象に選ばれた国々に対する著者のオプチミスチックで温かな目差しを感じ取ったからであろう。事実、彼もまたオルテガの言う「ヨーロッパの精神的岬」スペインの思想家として、その究極的な夢は、各国それぞれの特性を保ちながらの「ヨーロッパの統合」であったわけだ。一九七三年に、ヨーロッパ統合理念の擁護に功績があったとして「カール大帝賞」が与えられたのも故なしとしない。
  彼は、一八八六年スペイン北西の町ラ・コルーニャに生まれ、マドリード、パリ(理工科大学)で工学を修めて技師として働いたのち、一九一六年ロンドンに渡って「 タイムズ」の文芸欄を担当、一九二一年には国際連盟の軍縮問題担当委員、次いでオックスフォード大学のスペイン文学教授、第二共和国時代には駐米大使、国際連盟常任代表と、現代では数少ない真のユマニストとして活躍したが、内乱勃発後は主に英国などで亡命生活に入り、故国の土を踏んだのは実に四十年後(死の二年前)の一九七六年であった。
  最近また日本人論が盛んだが、マダリアーガのようにあらゆる価値評価的視点(あるいは偏見)から自由な、しかもそれぞれの国の事情に精通した人による『中国人、朝鮮人、日本人』なる本が書かれないものだろうか。少なくとも大陸、半島、島国という点で、これら三国は本書の図式にうまく重なるのだが。

             (「ネクスト」、一九八五年六月号)

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