佐々木孝 評論集

スペイン、その重層性の魅力

 今年の夏は実に暑い。気象条件からくる暑さだけなら話はかんたんだが、今年のそれにはさらに政治的な暑さが加わっている。中東のきな臭い暑さである。このきな臭さは、イラクのフセインとかいう男が醸し出すきな臭さばかりではない。つまりアメリカを初めとする西側諸国のふりかざす正戦論もいささかきな臭いのだ。
 政治、それも現代のように複雑に絡み合った国際政治は、素人にはいよいよ分かりにくいものになっている。最近の東欧の大地殻変動も例外ではない。しかし今度の中東問題の分からなさは、東欧の場合と少し質が違うのではないか、と思われる。つまりマルクス主義を中核とする社会主義は、何と言っても西欧キリスト教世界が生み出したもの(たとえ鬼子と言われようとも)であるが、イスラム世界はキリスト教世界とはまったく違う価値観と世界観のもとに成り立っているからである。確かに近代列強が、これら中東諸国と密接な係わりを持った一時期があった。しかしそれはあくまで本国と植民地という支配・被支配の関係であったわけで、西欧が本当に、対等に、イスラム世界を理解しようとしたことが今まであったかどうかは大いに疑わしい。今回の中東問題もそのあたりからじっくり考えてみるべきで、近代ヨーロッパ的価値観だけで判断するのはたいへん危険である。キリスト教、ユダヤ教、そしてイスラム教は、いうまでもなく砂漠に誕生した一神教である。だからこそ、その三者間の反目と対立には根深いものがある。考えてみれば、中東が世界の火薬庫と言われる所以は、現代世界の生命水である石油のためばかりでなく、それ以上にそこがイスラム世界とユダヤ世界が隣り合わせ、というより複雑に重なりあった地帯だからであろう。しかしこれら三つの宗教・文化が歴史上つねに反目していたかというとそうでない。かつて少なくとも文化的には平和裡に共存した一時期があった。その舞台は言わずと知れたスぺインである。スぺインを旅する人が感じるスぺインの魅力、他のヨーロッパ諸国とはひと味もふた味も違うその魅力は、つきつめていくならば、結局はスぺインがかつてこれら三つの宗教・文化が共存し、その影響が現代にまでおよんでいる国であるという事実にたどり着くのである。

  ユダヤの影響とイスラムの影響とを比較した場合、どちらかというと、前者は思想など目に見えない領域でのそれであるのに対し、後者は美術や音楽など感覚的な面できわだっていると言えよう。たとえば、建造物に関してなら、われわれにもなじみのあるグラナタのアルハンブラ宮殿(写真)やコルドバのメスキータを見れば一目瞭然である。
  今ではアラブ世界は、幸か不幸かそこに産出する石油のために、金持ちではあるが文化水準は低いというイメージがつよい。現在はそうかも知れないが、しかし歴史的に見てそれは大きな間違いである。ヨーロッパが近代をリードするに当たって大きな推進カとなったのは、アリストテレスを初めとするギリシア・ラテンの学問であるが、それらはルネッサンス期にそれまでヨーロッパに埋蔵されていたものが掘り返されたというわけではない。それらは一時期ヨローッパから完全に消えていたといった方が正解なのだ。つまりそれらは一度アラブ世界に保管され、あらためてヨーロッパに戻されたのである。その逆流現象の舞台となったのがスぺインである。特に十二、三世紀のスぺインのトレドでは、それら三つの宗教・文化が緊張関係を保ちながらも、たがいに切瑳琢磨していた。数多くの文献がアラビア語からラテン語に、それから各国語に訳されてヨーロッパ中に広まっていった。さらに、十二世紀スぺインのコルドバがらは、イスラム最大の哲学者と言われるアヴェロエス(1126頃―98頃)、そして同じくユダヤ最大の哲学者と言われるマイモ二デス(1135―1204)が誕生する。彼らはアリストテレスの思想をそれぞれの文化の中に取り入れ、かつ同時代のキリスト教思想をも視界に入れていた。つまりキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の三つの宗教・文化が対等に対話した時代があったのである
  しかし周知のように、その後、世界はキリスト教ヨーロッパの中から生み出された「近代」の価値観・世界観が圧倒的な力を発揮していく。ユダヤの知恵、イスラムの繊細さは次第に影の薄いものになっていく。先般の東欧の変革では、その近代が生んだ鬼子の社会主義をも克服したかに見える。確かにヨーロッパ近代が熟成してきた政治・経済の仕組みは、現存するものの中では最良のものであると言ってもいいだろう。

  しかしそれを絶対視するのはたいへんな思い上がりではないか。それに、価値が一元化された世界よりも、さまざまな価値が互いを認め合う世界の方がより人間的ではないか。
  実は依頼されていた原稿はスぺインについてであったのに、このクソ(失礼!)暑さと中東の危機の中で話が思わず広がってしまった。最後に辻棲を合わせるわけではないが、前述のような意味合いからも、またスぺインが西欧諸国の中で他ならぬ、近代そのものに反旗を翻した国として(新世界発見五〇〇周年という歴史的結節点を迎えることでもあるし)いまスぺインに注目することは実に意味あることだと改めて申し上げて筆を欄く。(1990.8.2)

( NHK文化センターニュース「えぬぶん」一九九〇年十月一日号)

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