佐々木孝 評論集

アルマ・マーテル

 ある年の謝恩会でのこと、一人の卒業生が頬を紅潮させながら言った。「私、昨日あんな素敵なガウンが着れて、ああ本当に清泉に学べてよかったなと思いました」。やっぱり女の子なんだな、とほほえましく思う反面、教師として内心がっかりする。大学四年間が一着のガウンに集約されてしまっている。大学四年間のいわば象徴としてのガウンならまだしも、文字通りガウンそのものが着れて嬉しいらしい。
 アルマ・マーテル(母校)と卒業生の関係には、いろいろな形があるだろう。他家に嫁いだ娘が実家をなつかしむように、暖かで居心地のいい古巣を慕うのも一つ。これは、娘を心配する親の立場からすれば、悪い気持ちはしないし、あるコソバユサを伴った喜びでもあろう。しかし男親からすれば、なんだこいついつまでも乳離れしないで、こんなことでいいのかな、と逆に心配になってくる。
 もうこんなところには金輪際いたくない、と後も振り返らずに飛び立っていく場合もあろう。これは先の例とは正反対の、学生にとっても大学にとっても一つの不幸かも知れないが、ありうるケースだ。しかしたいていの場合は、この両極端のあいだを揺れ動く。つまり牽引と反発があい半ばする。
 世に反面教師という言葉があるように、教育、もっと広く言ってにんげん間の力関係には、牽引によって影響を与える場合と、反発によって影響を与える場合と二つある。どちらが深い影響かは即断できない。反発することによって、かえって相手の存在なり思想なりがしこりとなって心中深く残り、じわじわと影響してくることだってありうる。つまり内心深く対話が続けられていたことになる。いやこの方が精神の世界の力学であるのは、偉大な文学者や思想家の内面史を読めば一目瞭然だし、たとえば親と子の関係においても日々起こっていることだ。
 アルマ・マーテルと卒業生の関係にもこれとまったく同じことが言える。そしてこうした牽引作用と反発作用、引力と斥力を同時に持つことに、というより(もともとこれら二つはすでに備わっているのだから)これら二つの作用を意識的かつ効果的に機能させることにおいて初めてアルマ・マーテルたりうる。

 簡単に言ってしまえば、価値観も好みも違う学生たちにとってもアルマ・マーテルでありうる度量の広い大学、逆に言うなら価値観も好みも違う相手に対して感情的反発や拒絶ではなく、真の対話を続けられる成熟した精神を持つ学生たち、この両者が存在してこそ初めてウニベルシタスの名に恥じない大学であり、真のアルマ・マーテル(母)でありうるということだ。
 もしそのような躍動する精神の磁場、多様性を含み持つ対話の場がないならば、大学と卒業生の関係も、こじんまりとまとまってはいるが「創造性の稀薄なときおりの催物のみでつながる関係で終始するであろう。この意味でわれわれはさらに努力しなければならないし、成長しなければならない。
 最後に卒業生諸姉のさらなる充実と飛躍を心からお祈りして筆をおく。

      「おとずれ」、第六十一号、一九八〇年三月十五日号。

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