佐々木孝 評論集

適正距離

  たとえば適正価格という表現はあるが、適正距離というような表現が適正かどうかは知らない。しかしこのごろ清泉の学生たちを見て考えることの一つが、この適正距離の欠如ということである。テレビで歯みがき粉のコマーシャルにたしか「恋人接近」とかいう言葉が使われたことがあるが、私の言いたいのも「人間と人間との距離、それも適正な距離のことである。
  学生同士のいわば仲間うちの距離もそうだが、いちばんはっきりするのは、たとえば外部の男子学生に対する清泉の学生の応対のしかたを見ているときに感じる適正距離の欠如である。つまり遠来の客に対してきわめて冷淡というかよそよそしい態度である。もちろんそれとは逆に変になれなれしいくずれた態度もある。しかし適正な距離はめったに見られない。
  教師との関係もその例外ではない。と言うより、私がいちばん敏感に感じているのは、教師と学生とのあいだの適正距離の欠如である。つまり文字通りの敬遠と言えば聞こえはいいが、要するに道端の石ころに対するような無機的な対応であるか、あるいは……いやこちらの方の極端は幸いなことにあまり目にしない。ともあれ適正距離の欠如である。
  いまの子供は喧嘩もよくできないと言われる。つまりこれだけなぐれば相手にどれだけのダメージを与えるか、それが分からないらしい。兄弟が多い家庭などでは、小さいときからもまれて、この人間と人間の適正距離に対する勘のようなものが形成されるのだが、兄弟の少ない現代の家庭ではそれもむずかしい。
  要するに幼いのか。学生も卒業間近になるとようやくまともに話せるようになる。つまり人間と人間の人間らしい対話が可能になる。もしこれが大学生活の初めからそうであったのなら、とこれは毎年痛感することだ。なぜなら、人間と人間の適正な距離というものはすべてに関係しているからだ。教育においては文字通り重要である。主に二つの理由からそうである。

  第一に、教育というものは教師の側からの一方的な知識の伝達ではなく、与える者と受ける者という関係がときには逆転するような、すぐれて弁証法的な場において初めて可能な創造的行為だからである。乱暴に言い切ってしまえば、教育は人間と人間の出会いであり、そしてその適正距離の測定であり確認でもある。もちろんここで言うのは、教師がきわめて人間くさく愚にもつかぬヨタ話で時間をつぶすこととは無縁である。
 第二に、学問において、その学ばれる対象と学ぶ主体とのあいだの適正距離が絶対必要な条件だからである。つまり学ぶ主体は、その対象を自分の世界の中に適切に位置づける必要があると言い換えてもよい。それが忘れられたところに真の学問はありえない。そしてこのことは、人間と人間の適正距離に対する勘を通じて養われるのである。

           「麗泉会々報」、第十二号、一九七九年

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