佐々木孝 評論集

もっと自由に!

 ある合宿でのこと。話題は「最近もっとも感動したこと」に移り、一人の学生がこう言った。「クラブ活動で、口もきいてもらえないと思っていた先輩からやさしい言葉をかけられたことが、私にはとても感動的でした」。
 何と素朴でつつましやかな人柄であることよ!聞いている私も思わず感涙にむせびそうになるのを辛うじてこらえた。というのは冗談である。正直言うと、一方では何とナイーブなんだろうと感心しながらも、他方では、彼女たちが抱えている問題というのは要するにこの程度なのか、という幻滅感である。目まいがするほど落胆しているのだ。      わずか一、二歳上の先輩に対してのこの見事なまでのへりくだりの心。がっちりと管理社会に組みこまれてしまった人間の、この固定された序列意識。 
 こんなことで、本当の意味での人間と人間のつき合いができるのだろうか。そしてこんなことで、学問ができるのだろうか。なぜなら、学問というものは、突きつめて考えるなら、社会通念や先見にとらわれずに人間や世界を見つめていくこと、つまりより一層自由になっていくことだからだ。
 たとえば今、この清泉に、そのような自由な気風が存在しているだろうか。確かに清泉は、形式的には少数教育という条件が整っている。そしてよく「清泉ファミリー」という言葉が使われもする。しかしここ数年来、私自身.留年生や身障者の学生たちとつき合っってみて(というより彼らの視点に立ってみて)、先の条件が決して現実には充分生かされていないのではないか、と思うような経験を何度か味わってきた。歯に衣を着せずに言わせてもらえば(思えばこの性格のため、穏健派や良識派の人たちから何度ひんしゅくを買ってきたことだろう)、清泉ではよく軽蔑の対象となるいわゆる「世俗」以上の、彼らに対する冷淡さ、無関心に背すじが凍る思いをさせられた。育ちや好みを共通のものとする者同士の一種の連帯感はあるだろう。それをしも「家族」的雰囲気と言うのは一向構わないが、しかし「家族」という言葉を、互いの個性を尊重し合う、そして弱い者も強い者も共に包みこんだ共同体と解するなら、清泉ファミリーはまだまだファミリーとは言い難いようだ。

   実は「清」の編集委員から求められたテーマは、「思い出す人」というのであった。しかしおそらく今回が清泉の出版物から求められて文章を書く最後であることから、約十四年ばかり清泉で苦楽を共にしてきた一友人として、最後の苦言(いたちの最後っ屁と言いたもうな)を呈したまでである。学生諸姉に心から申し上げたい、限りなく自由であれ!と。清泉の学生の素朴さに、自由さとたくましさを加味したまえ!と。

     清泉女子大学国文学会機関誌「清」、一九八四年

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