佐々木孝 評論集

言わずもがなのこと

 今さら言うまでも無いことだが、スペイン語でふつう〈教える〉という意味を表わす動詞は、ensenar であり、その名詞形は ensenanza である。語源はラテン語の insignia(印、スペイン語の sena)で、印をつける、記憶に刻みこむ、いう意味から来ている。『カスティーリャ語宝典』のコバルビアス(1539~1613)は、さらに二つの説を加えている。すなわち、老人から(ラテン語で asene)学ぶから、そして出来の悪い子に対する教師のしかめ面(cena)から来ている、と。もちろん言語学的には眉唾物ではあるが、しかし人間論的(?)には、まことにうがった見解である。
 ところで他にも、instruir と educar が〈教える〉という意味を持っている。名詞形はそれぞれ、instruccion と educacion である。語源はラテン語の instruere,educare. そしてこれら二つの言葉は、教育の持つ二つのの対照的な理念を見事に代表している。結論から先に言うなら、日本語の〈教育〉という言葉に含まれている二つの意味、すなわち〈教える〉と〈育てる〉にそれぞれ呼応しているということである。
 まず instruere だが、これは元々要塞を築く、守りをかためる、という意味を持っていたらしい。つまり、敵に勝つための戦術を教えこむ、世間の荒波に負けないための処世術を授ける、という意味合いが強い。そしてもっと重要なことは、この言葉の持つ教育の理念が、上から下への関係を前提としているということである。すなわち、知識を持つ者が知識を持たない者に教授する、という関係である。
 一方 educare は、educere(導く) と姻戚関係にある言葉で、〈引き出す〉というのが原義である。たとえば港から舟を引き出す、という具合に。そして instruere との対比から言うなら、この言葉の持つ教育の理念は、上から下へではなく、教える者と教えられる者が、いわば同一平面に立っているということである。つまり、教える者は、教えられる者のうちに潜在的にある知識、というより知恵、もっと一般的には可能性、を引き出す者なのだ。
 教育は、これら二つの理念が微妙なバランスを保っていなければならない。どちらか一方だけでは駄目なのだ。

 しかしどちらがより悲劇的であるかといえば、エドゥカーレが不在のときである。なぜなら教育学を意味するペダゴヒアの語源であるギリシャ語のパイダゴゴスは、子供(パイドス)を導く者(アゴス)を意味しているからである。そしてこの場合の導く(アゴ)という言葉は、スペイン語に直せばコンドゥシール、つまり共に歩むことである。コンドゥシールにはもちろん「運転する」という意味があるが、上手に運転するためには車の特性を最大限に引き出すこと、つまり車を操縦するというより、車と共に走る、車と一体化する必要がある。これには歴史的な背景がある。すなわちギリシャで教育にたずさわった者の多くは奴隷だったという事情である。とうぜんインストゥルエレではなく、エドゥカーレ、コンドゥシールの姿勢がなければつとまらなかった。同一平面どころか、教師は社会的には一段と低い地位にあったのだから。
 教育にたずさわる奴隷(スペイン語ではもちろんエスクラーボ)は時には自由人以上の崇敬を受けることもまれではなかったといっても、しかし奴隷制度そのものはやはり廃棄さるべき歴史的な遺制であることに変わりはない。しかしすべての歴史的事実についても言えることだが、われわれはこれからも或る有益な教訓を引き出ことはできる。すなわち教師は、教師という地位から来る権威ではなく、学識と経験、そして何よりも先ず、学ぶ者と共に歩もうとする精神によってはじめて教師たりうる、と。
 点数重点主義と落第への恐怖心(もちろん時には必要だが)とによって教育が運営されるとき、そこにあるのは学問とは名ばかりの「お勉強」にすぎない。「落ちこぼれ」はできるのではなく作られるのである。そして厳しさにも二通りあって、一つは或る基準を設定してそれを飛び越えなかったら落とすという厳しさ、そしてもう一つは、学ぶ者に対して彼が持つ可能性を最大限に要求することである。もちろん真の厳しさは後者であり、この方が数倍しんどいことである。

 以上は教育学のイロハのようなもので、今さら言うのも烏滸の沙汰(おこのさた)という気がしないでもないが、しかし世の中にはだれでもが知っていながら、しかもすっかり忘れていることがあるものである。いや、その意味で言うなら、教える者、学ぶ者がもっとも忘れやすい教育学の要諦、それは学校教育というものが人間教育のすべてではなく、ただ相対的に見て効率の良い一手段にすぎないという事実である。ここを押さえてはじめて、教える者と学ぶ者の相互信頼の上に立った自由な、そしてゆとりのある教育の場が可能となる。点数や単位を絶対視する閉ざされた、守りの姿勢からは、自分の能力の半分も出さずに周囲に同調する事なかれ主義しか生まれない。

    清泉女子大学西語西文学科西文学会機関誌「フエンテ」、XV号、一九八二年

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