佐々木孝 評論集

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ウナムーノによるスペイン哲学の構想

  ヨーロッパ的でも近代的でもない言語を用いて近代ヨーロッパ的な考え方をしようとしても、それが何の役に立つであろうか
                (「ヨーロッパ化について」)

○はじめに

  一八九一年の春、ミゲル・デ・ウナムーノは、大学教授資格審査を受けるため、久しぶりにマドリードに出た。一八八〇年から八四年までマドリードで大学生活を送ったあと、彼は故郷ビルバオに帰っていたのだが、しかし故郷にあっても、学問への情熱を片時も忘れることはなかった。生涯「何よりも教授たちへの憎しみを表明した教授」(1)であったウナムーノ、ギリシア語教授でありながら、教壇的へレニストたることに甘んじなかったウナムーノも、やはり教師は<天職>であった。
  「哲学、文学の博士号を得て私の学業を終えたとき、われわれ皆に等しく起こることだが、私にも学んだことをいかに活用するかという問題がすぐさま生じた。それで私の興味が当時は、といっても今日も相変わらずそうだが、あらゆることに向かってはいるが、とりわけ哲学と詩――双生の姉妹である――に対してであったから、教授資格審査の準備を始めることにしたのである。それで最初、心理学、論理学、倫理学の試験、次に形而上学の試験を受けた。しかしその当時、そうした問題に対する私の批判的考え、とりわけすでにあのころから私の精神的資質であった独自の見解のせいで、両方の審査に失敗した、いや失敗せざるをえなかった。つまり二つのうちどれにも合格できなかったのである。それで私は言語に対する私の興味を活かして、ラテン語とギリシア語を受けようと決心した。二度ラテン語で失敗したあと、ようやくギリシア語教授の席を得ることができた。そのときの審査委員長をつとめたのは、雄弁な詩人であり、過ぎ去った時間の精神を博学をもって再構築することに没頭しているわが師ドン・マルセリーノ・メネンデス・イ・ペラーヨであった。そのときの審査員の中にはもう一人、洗練された趣向と繊細な精神の人ドン・フワン・バレーラがいた」(2)
  このとき目ざす大学は違ったが、ウナムーノと共に現代スペイン思想の中に独自な位置を占めるアンヘル・ガニベットも一受験生として審査を受けている。ガニベットの方は母校グラナダ大学のギリシア語教授の席を狙っていた。

  「わが敬愛する師ドン・マルセリーノ・メネンデス・イ・ペラーヨを審査委員長とする審査団は二つの審査を兼ねていたが、試験は別々に行なわれた。サラマンカ大学の審査が先に行なわれ、グラナダ大学のそれが後だった。ガニべットは私のすべての試験を傍聴し、私も彼の試験を傍聴した。あの天気晴朗で心楽しい五月と六月の日々、われわれはカフェーで昼食の後一緒になり、午後の試験が終わったあと、サン・へロ二モ通りにある清涼飲料を商う店に行って一つずつアイス・クリームを食べ――私の大好物だった――、そこからレティーロ公園へ向かった。
  その当時私は二六歳、ガ二べットは私より一歳年下であったと思う。そのころの彼は、ひじょうに言葉少なく(後年よく話すようになったそうだが)、私の方はいまよりもずっと話好きであった。したがってもっぱら話をリードしたのはいつも私だった。しかしながら彼の観察やときおりさしはさむ言葉は、いま思いだすといつも適切であったとは言えないにしても、実に鋭いものがあった」(3)。
  試験の結果ウナムーノは、幸いにサラマンカ大学ギリシア語教授の席を獲得することができたが、ガニベットの方は失敗してしまった。ウナムーノが言うように、「知性においてその競争者たちを大いに凌駕していたが、彼らの中には彼よりもギリシア語の知識が豊富で、それに通暁していた者がいた」(4)からである。こうしてウナムーノはサラマンカに移り、ガニべットはコースを変えて領事試験を受け、それに合格して任地アントワープに向かった。ウナムーノがガニべットの名前にふたたび出会ったのは、それから五年後、ガニべットがスペイン領事として滞在するガンから、故郷グラナダの雑誌『グラナダの守護者』 El Defensor de Granada に書き送った記事を読んだときである。
  一八九一年の教授資格審査のときのことを、ウナムーノの回想の言葉によってここに再現してみたのは、そのときの三人、すなわちメネンデス・ペラーヨ(5)、ミゲル・デ・ウナムーノ、そしてアンへル・ガ二べットの出会いの意味を考えてみたかったからにほかならない。この三人の出会いにことさら象徴的な意味合いをつけ加えるつもりはないが、しかし現代スペイン思想史の中にこれを置いてみるとき、或る重要な意味が浮かびあがってくるように思われる。

  つまり審査する側の旧世代の者が、内実は、審査される側の新世代の者によって<審かれている>という歴史のパラドックスである。
メネンデス・べラーヨはこのときまだ三六歳の少壮の学者であったから、旧世代という言葉で片づけることはできないかも知れない。旧世代ということなら、むしろ一八二一年生まれのピ・イ・マラガーユの世代、一八三八年を境に生まれた共和主義者のカステラールやサルメロン、教育者のヒネル・デ・ロス・リオス、作家のべレーダ、バレーラ、ガルドースなどのいわゆる<六八年の世代>(6)を指さなければならないであろう。しかしながら二〇歳にして「スペイン科学」をめぐって華々しい論戦を展開し、このときまでに『スペイン異端者史』(一八八〇―八一)、゜『スペインにおける美的観念の歴史』(一八八三―一九一)という大著を発表していたメネンデス・ペラーヨは、若くしてすでにスペイン知性界を代表する巨大な存在であった。
  三人の出会いが或る重要な意味を持つと言えるのは、しかしこの新旧両世代の対立という事ばかりではない。後述するようにウナムーノ、ガニべットという同世代の思想家の出会いもまた、現代スペイン思想にとって、とりわけウナムーノの思想形成にとって大きな意味があったのである。
  もちろん、ウナムーノの思想形成において同時代のスペイン人が及ぼした影響を考える場合、先行世代のメネンデス・ぺラーヨ、同世代のアンへル・ガニべットのみをとりあげることに問題がないわけではない。たとえば、ウナムーノが作家として立とうとするときに、彼がしきりに書簡を送り、自作に関する批評を仰いだクラリン(レオポルド・アラス)、スペイン再生をめぐって熱狂的に論陣を張ったホアキン・コスタなどの名前を忘れることはできないであろう。しかしながら、ウナムーノの思想が一つの大きなまとまりを見せた『生の悲劇的感情』(一九一三年)の終章、「現代ヨーロッパの悲喜劇におけるドン・キホーテ」において、彼の言うスペイン哲学、すなわちドン・キホーテの哲学との対比のもとに、特にメネンデス・ペラーヨとアンへル・ガニべットの名前を挙げているという事実は、これら二人の思想家がやはりウナムーノの思想形成に重要な位置を占めていると解さざるをえないのである。

  ウナムーノが生涯追い求めたもの、彼の「魂、思想、生命のすべてを注ぎこんだ」(7)テーマが、純正なスペイン哲学の構築であったことはまちがいない。しかしそもそも普遍的たるべき哲学にことさらナショナルな性格をまとわせようとすることは、哲学の本義にもとるものと言えないであろうか。だがわれわれはここで性急にそう断定することはつつしまなければならない。なぜなら、<普遍的>であることと<万国共通>であることとは違うからである。哲学史をひもとくまでもなく、すべての哲学は、それを規定し限定するところの一連の民族的性格に準拠しつつ構築されてきた。ウナムーノが言うように、「科学というものは、けっして純粋な形では与えられないものであり、幾何学、それよりも化学、いやそれ以上に哲学は、その内部に科学以前のもの、科学の下にあるもの、科学の上にあるもの、そしてお好みとあらば実際に内―科学的なもの(intra-cientifico)をも含んでおり、そしてこの何物かは国民という質料によって染めあげられている」(8)からである。哲学があくまで言葉によってしか展開できないとすれば、これは当然すぎるほど当然なことと言わなければならない。なぜなら、「言語は、民族の経験の容器でありその思想の沈澱物である。そしてその隠喩(言葉の大部分が隠喩であるが)の奥深いひだの中に、ちょうど地理学で言う地層の中に生物群の推移が残されているごとく、民族の集団的精神がその足跡を残してきた」(9)からである。
  だがイギリス哲学、フランス哲学、あるいはドイツ哲学と言うときと同じ意味合いのもとで、<スペイン哲学>を語ることができるであろうか。まず、芸術・文学の分野ですぐれた業績を残してきたことは事実だとして、しかし、はたしてスペインに哲学と言えるものがあっただろうか。次に、たとえそれがあったにしても、この場合<スペイン哲学>という表現に或る特別な意味がこめられていはしまいか。いや、そもそもスペイン哲学と言う場合の、そのスペインとは何なのか。
  「いったい、スペインとは何だろうか。世界という広がりの中、数知れね民族にかこまれ、無限なる昨日と終りなき明日に身を失い、天体のまたたき、広大にして宇宙的な冷たさの下にある、このスペインとは、そも何者なのか。ヨーロッパの精神的岬、大陸的魂の舳先なるこのスペインとは?」(10)。

  これはウナムーノの一世代あとに登場し、ウナムーノの思想に批判的に関わり合いながら、しかしウナムーノから深甚なる影響を受けつつおのれの哲学を展開したオルテガが、その出発点を刻す『ドン・キホーテに関する思索』(一九一四年)において述べた言葉である。われわれはここで、ウナムーノが「スペインとは何か」という巨大なテーマをひっさげて祖国スぺインの精神的再生を企図したいわゆる「九八年の世代」の指導的思想家であることを想起しなければならない。つまりスペイン哲学という場合、そこにはスペインとは何か、祖国スペインをいかに再生すべきかという問題意識がつねにつきまとっているということである。したがってわれわれには、メネンデス・ペラーヨならびにガニべットとウナムーノの出会いの意味を考察する前に、その「スペイン問題」(El problema de Espana)なるものに関して若干の考察を試みる必要があると思われる。


一 スぺイン問題

  スペイン問題とは、要するに、スべインという国そのものに内在する二つのスペイン、すなわち孤立主義的(aislamiento)スペインと世界主義的(ecumenidad)スべインとの拮抗対立関係が産み出すさまざまな反応の総体とひとます定義することができるであろう。スペインは、その歴史のそもそもの始まりから、絶えず外からの侵略にさらされてきた。フェ二キア、カルタゴ、ローマ、西ゴート、イスラムなどによる侵略がそれである。なかでもイスラムによるそれは八世紀初頭から十五世紀末まで実に八世紀にも及ぶ長い屈従をスべインに強いた。しかしこのように圧縮と膨張の反復による生のリズムを植えつけられたスペインにとり、孤立主義は単に消極的な性格のみを有していたわけでない。ディエス・デル・コラールがいみじくも言うように、たとえば八世紀にもわたって国土縮小を強いられたスペインは、「あたかもふりしぼった弓のように、この地球一周の旅の大いなる矢を放たんがために、身をかがめ力を蓄えた」(11)のである。長いあいだ圧縮され蓄積されたエネルギーが、一挙に爆発したのは、十五世紀から十六世紀にわたる異常なまでのスペイン帝国の領土拡大においてである。それは文字通り爆発と言うほかはない膨張であり、自国の政治的経済的態勢をかためるいとまもないままの、外に向かっての拡大拡張であった。

  スペインが自国の存在そのものに対する疑念、反省が意識の表層に浮かびあがり始めたのは、そうした外へ向かっての膨張がしぼみ始めた十七世紀初頭からである。すでに黄金世紀のすぐれた文学者、思想家の口から、スペイン没落へのにがい喚きの声が聞こえてくる。
  ケべード(一五八〇―一六四五)、サアべドラ・ファハルド(一五八四―一六四八)、グラシアン(一六〇一−一六五八)たちの作品の主調低音は、自国の衰退を嘆く悲歌である。ケベードはこう語っている。

  「ああ不幸なるスぺインよ! 汝の過去ならびに汝の年代記をひもといてみるのだが、いったいなぜ汝がかくまで執劫な迫害に値するのかその理由が分からないのだ(12)」。

  このように自国の没落に対する嘆き、自国が本来歩むべき道を歩いていないのではないかという問題意識は、十七世紀以来、心あるスペイン人著作家のすべてに共通している。スペイン思想史をこの「スぺイン問題」を主軸に編むのがもっともその本質を捉えるのに適切な方法であると言っても、けっして過言ではない。われわれ外国人にとって、このスペイン人たちの執拗なまでの問題意識は一つの驚異である。最近においても、このスペイン問題を直接扱った書物は後を絶たない。目ぼしいものだけでも、ライン・エントラルゴの『問題としてのスペイン』(Espana como Problema)、それと論戦を交えたラファエル・カルボ・セレールの『問題を持たぬスぺイン』(Espana sin Problema)、サインス・ロドリゲスの『スペイン没落に関する諸見解の展開』(Evolucion de las ideas sobre la decadencia espanola)などを挙げることができよう。
  先ほど、スペイン問題とは、二つのスペイン、すなわち孤立主義的スぺインと世界主義的スペインとのあいだの拮抗対立関係が産み出すさまざまな反応の総体であると述べた。しかしここで注意しなければならないのは、これら二つの傾向はたがいに混じり合っており両者に明確な境界線を引くことは不可能であるということである。両者はたがいに他を牽制し、かつ相互浸透を繰り返しながら歴史を通じて緊張関係を織りなしてきたからである。

  「イスパニアの歴史は、そもそもの開闢以来、孤立主義と世界主義との間の振子運動をなしてきた」(13)というディエス・デル・コラールの指摘もこの間の事情を指している。たとえばスペイン近代史に即して言うならば、世界主義的スペインとは、ヨーロッパの先進諸国――名ざしで挙げるならば、フランス、イギリス、ドイツ、そしておそらくイタリア――の水準にまで自国の総体的生を向上させようとする<ヨーロッパ主義>であり、それに対して孤立主義的スぺインとは、むしろ自国の伝統にその再生の立脚点を見いださんとする<スぺイン主義>とひとまず言い換えることができるであろう。しかしこれら二つの傾向をそう簡単に腑分けすることは実際には不可能なのだ。もしもスペインがヨーロッパの先進諸国に追いつくことだけが問題であったならば、あるいはそれら諸国に対抗しつつ自国の伝統を守ることだけが課題であったならば、これほど持続的な、というより本質的な緊張は生じなかったであろう。つまりスペインもまたヨーロッパであるという事実が、両者の緊張関係をいよいよ複雑にしているのである。拙論で取りあげようとするミゲル・デ・ウナムーノは、この矛盾せるスペイン問題に生涯苦闘した思想家の一人であった。一般に彼はヨーロッパ主義者と目されるオルテガとは対照的に、スぺイン主義者とみなされている。近代ヨーロッパ=進歩に対抗しつつ、中世(あるいは古代)=スペイン(あるいはアフリカ)=伝統をししゅせんとした思想家とみなされている。しかしその彼が同時に、「スペインは発見されるのを待っている。そしてそれを発見するのは、ただヨーロッパ化されたスペイン人だけであろう」(14)と、一見矛眉する言葉をも吐いているのである。ウナムーノが目ざしたスぺイン哲学は、このように錯綜せる「スペイン問題」をいかに超克するかにあったと言ってもよい。


ニ メネンデス・ペラーヨと博学
     ――ウナムーノの博学批判――

  一八九一年春の教授資格審査において、ウナムーノを審査した一人がメネンデス・ペラーヨであったことは前述した通りだが、ウナムーノはこのとき初めて彼に会ったわけではない。メネンデス・ぺラーヨがマドリード大学のスペイン文学史の教授になったのは一八七八年であるから、ウナムーノは四年間の大学生活中(一八八〇―八四)、何回か彼の講義を聞いたはずである。だがウナムーノにとって、文学史の講義を通してのメネンデス・ペラーヨの姿よりも、一八七六年からおよそ七年間にわたって、「スペイン科学」(15)をめぐって論陣を張った論争家メネンデス・ペラーヨの姿の方がより鮮明な印象を与えたにちがいない。
  ところでメネンデス・ぺラーヨが「スペイン科学」をめぐって論争した時代、そしてウナムーノが大学生活を送っていた時代のスペインは、アルフォンソ十二世による王制復古(一八七五年)の時代であり、外面的には大いなる安定を享受していた時代である。自国の後進牲も産業や教育の充実によって遠からぬ未来に克服できると楽観された時代であった。しかしながらその泰平の社会も、一皮むけば、後に米西戦争、モロッコ出兵、スペイン内戦となってさまざまな矛盾が露呈するはずの退廃を内部にかかえていたのである。オルテガによればこの時代は、「スペインの心臓が、その脈拍数の最低をマークした」時代である。
  「一八五四年頃――この頃復古が地下深く始まったのだが――スペインの悲しげな面からは、あのヱネルギーに満ちた火の輝きが消えはじめた。ダイナミズムは放物線を描き終わった発射体のように地上に舞い戻ってきつつあった。スペインの生命は自己の中に後退し、自己を空洞と化した。自己の生命の空洞を生きること、これが復古だったのである」(16)。論争のきっかけとなったのは、アスカラテが、一八七六年、『レビスタ・デ・エスパーニャ』誌に発表した『セルフ・ガヴァメントと理論的君主制』と題する論文である。アスカラテは次のように書いた

  「たとえば国家が学問の自由を庇護するか否定するかに応じて、その民族のエネルギーがこの分野で特異な資質をより多くか、より少なく発揮することになる。極端な場合には、ここ三世紀スペインにおいて起こったように、その活動が完璧と言ってよいほど窒息させられてしまうこともありうるであろう(傍点メネンデス・ペラーヨ)」(17)。
  それに対して若きメネンデス・ペラーヨは、そうした意見は、『百科全書』の中の偏見に満ちたマソン・P・キルビリェーの見解の焼き直しにすぎない、と反論したのである。つまり、スペインの過去はけっして否定さるべきものではなく、そこにはヨーロッパの科学に充分匹敵しうる、むしろその先駆となったすぐれた業績が、たとえば神学、哲学、法学、政治学、経済学、史学、言語学、自然科学、医学そして軍学の分野で成されたとし、逐一その代表者を挙げたのである。アスカラテの陣営には、さらにマヌエル・デ・ラ・レビーリャやサルメロンが加わった。確かに過去にすぐれた人物はいたかも知れないが、かれらは孤立しており、学というものは学派の形成をまって始めて歴史的価値が証明される、というのがラ・レビーリャたちの言い分であった。
  これに対してメネンデス・ペラーヨは、先のリストにさらに天文学、植物学、鉱物学、物理学の分野でのすぐれた業績を挙げる一方、哲学の学派としてライムンド・ルリオのルリスモ、ルイス・ビーべスのビビスモ、フランシスコ・スワレスのスワレスモ、さらにセネカのセネキスモ、アべロエスのアべロイスモ、マイモ二デスのマイモニスモを擁立し、スペインにも学派と言い得るものが存在した、と主張した。
  しかし論争はさらに広がり、ここにもう一つのグループが加わる。すなわちピダル・イ・モンやフォンセカ神父などの熱烈なトミスタであり、メネンデス・ペラーヨの立論のうちに見られるルネサンス偏重の態度、たとえばトマスよりもスワレスを評価するといった態度を非難した。つまり彼らによれば、真にスペイン哲学と言えるようなものは存在しないこと、真の哲学はただトマス哲学のみであるというのである。彼らは、トマス哲学以後の哲学、すなわちルネサンス、宗教改革、革命と連なる流れの中の哲学を異教の哲学とみなし、近代精神そのものを否定する立場をとった。

  三つ巴のこの論争は、最後はメネンデス・ペラーヨのフォンセカ神父への答えで一応はしめくくられたが、彼がこの論争を通じて得たものは、結局スペインが現在こうむっている全面的な荒廃についての苦い認識であった。つまりラ・レビーリャたちのヨーロッパ主義者たち、もっと正確に言うなら進歩主義者たちに見られる、スぺインの過去に対する驚くべき無知であり、またフォンセカ神父ら独断的トミスタたちの「聖霊をさえトミスタにしかねない」(18)保守反動的精神であった。彼がこれ以後論争から遠ざかって、「過ぎ去った時間の精神を博学でもって再構築する」(ウナムーノの言葉)ことに向かったのは当然だったと言える。
  さてウナムーノがその名を世間に知られるようになったのは、サラマンカ大学教授になって五年目の一八九五年に雑誌『近代スペイン』に発表した五つのエッセイ、すなわち「生粋主義をめぐって」によってである。われわれはそこに、「わが師」メネンデス・ペラーヨに対する彼の見解を随所に読みとることができる。ウナムーノがそれらエッセイの中で展開しているのは、従来の進歩主義者たちや伝統主義者たちの誤った考え方を修正しつつ、真実のスぺインを目ざす第三の道を模索することであったが、しかしより多く、またより痛烈な批判の対象となっているのは、伝統主義者たちである。さすがに恩師メネンデス・ペラーヨを名ざしで批判してはいないが、その伝統主義者たちの中にメネンデス・ペラーヨが含まれていることは明らかである。ウナムーノは、従来の伝統主義者たちが言う伝統は、歴史的伝統であって、われわれが求めなければならないのは、永遠の伝統であると主張する。
  「過去の伝統、現在の伝統があるごとく、永遠の伝統というものがある」、「永遠の伝統は、あらゆる国の予言者たちが自らを光にまで高めるために捜し求めなければならないものであり、民衆をより良く導くために、民衆のうちには意識されていないものを自らのうちに意識することによって捜し求めなければならないものである。スペインの永遠の伝統(永遠なるがゆえに、スペイン的というよりむしろ人間的と言うべきものであるが)、それはわれわれスペイン人が死した過去の中にではなく、生きた現在の中に捜し求めなければならないものである」。「永遠の伝統は、人間そのものの底部である」。

  しかし「永遠の伝統を無視する人たちがいる。彼らは人類の現在にあぐらをかいて、伝統の持つ生粋かつ歴史的なものをわれわれの過去の血統に、より正確に言うならば、この地上でわれわれに先立った過去の血統に求めている。自分たちを伝統主義者と呼ぶ人たち、あるいはそう呼ばれないまでもそう自認する人たちの大部分は、永遠の伝統ではなく、ただ過去の空しい影を見ているのだ」。「気の毒な人々である! そこにはデータを文書保管室に捜し、またそれらの謄本を作る人たちがいる。彼らは紙片を集めてしまいこみ、ほどよい時に死んだ物をよみがえらせ、文献目録やカタログを、ときにはカタログのカタログまでも作り、本の表紙や型を記録し、印本を掘り出し、取りかえしのつかないほどの長い時間を浪費する。彼らの働きは有益であるが、しかし有益なのは彼らのためでもなければ彼らのおかげでもなく、彼らの努力にもかかわらずなのだ。つまり彼らの働きは別の心がまえでそれを利用する人たちにとって有益なのである」(19)。
  痛烈な批判である。ウナムーノが自己の思想を形成しようとするときにあたって、まず闘わなければならない当面の相手は、メネンデス・ペラーヨに代表される(もちろん彼はその最良の部分に属するものではあるが)こうした伝統(ウナムーノはこれに歴史的という形容詞を付すが)主義者たちであった。この当時のウナムーノは、まだ進歩主義、実証主義の影響下にあったので(29)、アスカラテなどの進歩主義者に対してはそれほど辛辣な批判をあびせかけてはいない。『生粋主義をめぐって』の最終章「現代スペインの無気力(マラスモ)について」の中で、「自らを歴史的過去に求め、あるいはそれを出発点とする生粋主義のかずかずは、歴史的な現在のうちに継続するしかなく、そしてそれらは民族の精神的貧困化の手段以外の何物でもない」(21)として、メネンデス・ペラーヨ流の伝統主義(生粋主義)を批判している。
  ウナムーノが「敬愛する師」メネンデス・ペラーヨと一線を画するのは、そして師を乗り越えているのは、まさにそうした歴史的過去にかかずらうだけの博学においてである。もちろんウナムーノは、博学そのものを否定しているのではない。

  事実ウナムーノほどあらゆる事に好奇心を持った人も珍らしいし、当時のスペインにあってウナムーノ以上に外国の思想家、作家をその射程内にとらえていた人もいないのである。ウナムーノが批判するのは、博学的精神、そして博学者たちであった。「彼らの働きは別の心がまえでそれを利用する人たちにとって有益」なのである。
  ウナムーノが博学についての彼の見解をさらに発展させるのは一九〇五年の『ドン・キホーテの読み方とその解釈について』と題するエッセイ、さらに同年、彼の思想が一つの大きな結実を見せた『ドン・キホーテとサンチョの生涯』を発表したときであった。つまり「スペインの愛国的宗教の国民的聖書たるべき」(22) 『ドン・キホーテ』に加えたウナムーノの自由解釈がまき起こしたかまびすしい非難の声に対してウナムーノが受けて立ったときである。だがこの際、われわれにとって彼がセルバンティスタたち、二流の学者たちの非難の言葉にどのような手痛い反撃を加えたかは興味がない。われわれに関心があるのは、当時の学界の最良の部分を代表していたメネンデス・ぺラーヨに対して彼がいかなる反応を示しているかである。彼は『ドン・キホーテの読み方とその解釈について』の中で次のように語っている。
  「私はいままで、スペインには真の哲学が存在したことなどないと思ってきたが、いわゆるスペイン哲学なるものの存在を証明することに向けられたメネンデス,イ・ペラーヨ氏の労作を読んで以来、私に最後まで残っていた疑い[もしかしてあるかも知れぬとの期待]もすっかり消えてしまった。そして私は現在に至るまでスペイン民族は真に哲学的な理解力にはまったく適性を示さなかったということを確信するに至った。哲学者と呼ばれているのは他人の哲学の注釈者もしくは祖述者たち、博識者や哲学研究家であるのを知って、そう確信したのである。そうした確信が強まり決定的となったのは、バルメスやセフェリーノ・ゴンサレス神父、サンス・デル・リオその他の者たちが哲学者の名で語られているのを見たときである」(23)。

  つまりウナムーノはそこで、メネンデス・・ぺラーヨの言うスペイン哲学なるものが、実は博学にすぎないという事実を改めて苦く確認しているのである。これはメネンデス・ペラーヨが「スぺイン科学」をめぐっての論争の果てに達したスペインの精神的不毛に対する認識よりも数段苦い認識であった。ウナムーノが『ドン・キホーテとサンチの生涯』において、スペイン哲学を模索したのもまさにそうした認識に立った上でのことであったと言えよう。博学の上に哲学を打ち立てることは不可能である。なぜならオルテガの言うように、「博学は学間の外辺にあるものである。そのわけは、哲学が中心的なるものへの熱望を形づくっているのに対し、博学は事実を蓄積するだけ」(24)だからだ。
  さらに一九〇五年、つまり同じ年の十二月に発表された『博学と批評』と題するエッセイも、同じテーマをめぐってのウナムーノの見解を述べたものである。彼はそこで、フィッモーリス・ケリーがその著『スペイン文学史』の中で、学的伝統のないスペインにメネンデス・ペラーヨやメネンデス・ピダルのような、ドイツ流の精密な論を展開する学者の血統が誕生しようとしているのは一つの驚異であると述べているのに対して、そうした学者がこれ以上増えるのはまっぴらごめんだ、博学というものは、えてして、スフィンクスの眼を直視するのを避けるために、スフィンクスの尻尾を数えるものであると述べている(25)。
  メネンデス・ぺラーヨに対するこのようなウナムーノの態度は最後まで一貫している。師に対する敬愛の念を失うことはなかったが、しかし彼とのあいだに跳びこえることのできない深い溝が横たわっていることを感じとっていた。彼は一九三二年、メネンデス・ぺラーヨ没して二〇年後に、『ドン・マルセリーノとスフィンクス』という短い文章を書いたが、そこでもスフィンクスの眼を直視する勇気がないために、その尻尾を数えた師の態度を嘆いている。メネンデス・ペラーヨは『スペイン科学』、そして『スペイン異端者史』を通じて近代の異端から守ろうとしたそのカトリック・スぺインが、実は大なる苦悶のうちにあったことをついに知りえなかった。

  スペインの中産階級が、情欲の歯止めとしてのカトリックへの信仰を失ったばかりでなく厳密な意味で宗教的な信仰、というより希望、カルデロンの言う、生まれ出たことへの大いなる喜びとしての信仰を失ったことに気づかなかったのである(26)。ウナムーノが構想したスペイン哲学は、むしろ民族の宗教と言えるものであり、現代人が陥っているこの悲劇、この信仰の喪失を踏まえつつ、同時にそれを闘いぬくものであった。そこではもはやメネンデス・ペラーヨの言う哲学、博学はまったく無力とも言える世界であった。
  だがわれわれは彼の言うスペイン哲学の構想に取りくむ前に、もう一人との出会い、アンへル・ガ二べットとの出会いに触れておかなければならない。


三 アンへル・ガ二ベットと内面主義(27)

  ウナムーノが『生粋主義をめぐって』を発表したのは一八九五年であるが、その一年後の一八九六年、アンへル・ガニべットもスペインの本質を論じた『スペイン精神考』(Idearium espanol)を発表した。この両者を読み比べてみると、われわれはそこに多くの相違が見られるにもかかわらず、全休として大きな類似性があることに気がつく。一言でいえば、メネンデス・ペラーヨたちのスぺイン論に見られろ博学的精神がすでに乗りこえられているということである。『生粋主義をめぐって』もそうだが、とりわけ『スペイン精神考』はおよそ博学とは縁遠い精神につらぬかれている。同年二月に書かれた『美しきグラナダ』の中で、ガニべットは、現在自分はスペイン民族の理想的本質に関して一書を執筆しているが、それは従来のような体系だった書き方ではなく、五官を使って、つまりわれわれが生きるときに用いるその方法によって書かれている、と予告している。スペイン文学史という見地から考えるならば、まさにウナムーノとガ二ベットの二人によって、言葉の真の意味のエッセイ(ensayo)、つまり試みが一つの方法として定着しはじめたと言えるのである。彼らにとって、書くことは、すでにできあがった見解なり理念を論理的に組み立て、展開することではなかった。

  言うなれば彼らにとってすでにできあがった「スペインの理念」などは存在しないのであり、彼らは文字通りおのが存在のすべてをかけて、自らそれを作りあげなければならなかったのである。真理は文書保管室に埃にまみれてころがっているのではなく、おのが存在の最深部を、知性ばかりでなく感情、感覚のすべてを動員して掘り起こすことによってのみ、われわれの前に立ち現われるのである。アンへル・ガニベットは一八九八年、三三歳という若さで謎につつまれた自殺をとげたが、それにもかかわらずウナムーノたち「九八年の世代」の先駆者か、あるいはむしろその代表的思想家と目されるのは彼のうちに見られるそうした相似性のためである。ウナムーノやガ二べットのスペイン論と、先行世代のそれとの違いをいささか図式めいた表現を用いるなら、ラ・レビーリャたち進歩主義者たちのモットーが「前進せよ!」、メネンデス・ペラーヨたち伝統主義者たち(フォンセカ神父たちの保守反動家も含めて)のそれが「復帰せよ!」であるのに対して、ウナムーノたちのそれは「内部に進め!」であると言うことができる。つまり先行世代の進歩主義者たち、伝統主義者たちは結局のところ異端審問的精神において同じ穴の狢であった。ウナムーノが言うように、進歩主義者たちにとってへッケルは神聖侵すべからざる教父であったし(28)、伝統主義者たちにとっては、聖トマス、セルバンテスがそれであった。彼らはすでにできあがった伝統なり、進歩(大文字の進歩、つまり進歩の理念)が大事なのであって、「永遠なるもののつねに成りつつある(in fieri)調和」(29)に気がつかない。しかし次代のウナムーノたちは進歩,伝統の底にあって不動のもの、むしろそれらを内面から超越ずる永遠の伝統に視線を向けるのである。
  ガニべットは『スペイン精神考』において、おそらくウナムーノの『生粋主義をめぐって』から直接の影響を受けることなしに、次のように書いている。
  「スぺインの生全体の復興は、われわれの領土の内部におけるわれわれのあらゆるエネルギーの集中化以外にいかなる出発点も持つことができない。スペイン精神がスペインから逃げて、地平線の四方にまき散らされてしまったあのすべての戸口を、そして今日そこから救いがやってくるはずだと期待されているすべての戸口を、掛け金、鍵、そして錠で幾重にも封じなければならない。

 それら一つひとつにわれわれはダンテの”[ここに入るもの]一切の望みを捨てよ”(Lasciate ogni speranza)という貼り札ではなく、別の貼り札、つまりより慰め多く、より人間的、より深く人間的である聖アウグスチヌスの言葉に倣って、”汝の外に出るなかれ。スペインの内部に真理在り”(Noli foras ire;in interiore Hispaniae habitat veritas)という貼り札をかかげるであろう」(30)。
 こうした老え方は、ウナムーノが『生粋主義をめぐって』の中で展開した「内―歴史」の考え方と大きな類似性を持っている。ウナムーノにとって、歴史は「絶えまなく続く深い海、すなわち沈黙し、その最も深い底には太陽がけっして届くことのない海」の上を揺れ動く波でしかない。スペインの再生、そしてそれをいかに達成すべきかを一つの主要な軸とするスぺイン哲学は、したがって歴史の底、歴史を歴史たらしめている内―歴史に測鉛を降ろすことでなければならない、あるいは歴史の内面に沈潜することでなければならない。
 ウナムーノとガ二ベットは以上のような類似点を持ってはいるが、しかしウナムーノはガ二ベットが自分の先行者であるという意見に対してはつねに反対した。ガ二ベットが死んでのちも、むしろ自分の方がガ二ベットの先行者であると頑くなに主張している。もっともそれは、ある人を賞讃するのは、暗に他の人を貶めるためであるというスペインの精神風土そのものに苛立っての発言ではあるが、しかしウナムーノの内面主義とガ二ベットのそれとを冷静に読み比べるとき、事実そこに見られる或る根本的な相違を否定することはできない。
 たとえばガニベットは、『スペイン精神考』の冒頭で、聖母の無原罪の宿りの教義と、スペインの国民精神の奥義との間のいささか強引な比較を試みながら、スペインを、「修道的禁欲的生活へのあらがい難き召命に惹きつけられてはいるが、その意志に反して結婚し、義務として母になり、その生涯の終わりに、自分の精神がその仕事とは無縁のものであること、肉による子供たちの中にあって、ちょうど奇しきバラ[聖母]のように、童貞性の理想に対してひとりさびしく心を開いている魂であることに思い至る」(31)ような女性にたとえている。

  彼にとってスペインが次々と企てていった偉業は、実はスぺインにとって無縁のものであり、もしもスペインが自国にとどまり、より内的な生を送っていたならば、キリスト教的ギリシアとも言うべき国になっていたであろうと考えるのである。
  ウナムーノ、ガ二べット以前のスペイン論、スペイン再生論は、煎じつめれば、教育の問題(ヒネル・デ・ロス・リオスなどの「自由教育学院」や、スペイン科学再興のためのメネンテス・ペラーヨの綿密なプログラム)と産業の開発(ホアキン・コスタなどの農業、灌漑対策)という外的な課題として提起されていたという点から見れば、ウナムーノ、ガニべットは共にその内面主義において一致する。しかしながら、いま引用した言葉でもはっきりするように、ガニべットのそれはいわば童貞主義と言うべきもの、つまり歴史の汚れを知らぬ無辜の状態への還帰を目ざすものであった。この意味で、彼の内面主義はあくまで歴史的内面に向けられたものであったと言わなければならない。もしも彼がウナムーノのように、永遠の伝統を求めていたならば、歴史を越える位相に立たなければならなかった。なぜならいかに無辜の状態であれ、それは歴史の圏内にとどまるものだからである。ライン・エン卜ラルゴが指摘するごとく、もしも彼が文字通り聖アウグスチヌスの言葉に倣うならば、「スペインの内部に」(in interiore Hispaniae)ではなく「内なるスペインに」(in interiore Hispania)と言わなければならなかった(32)。ガ二べットが原スペイン人ともいうべきセネカの哲学をスべイン哲学としてとらえ来たったのも、彼の内面主義から言えば当然の帰結であった。
  ウナムーノとガニべットがあの大学教授資格審査からおよそ五年の歳月を経てふたたび旧交を暖めた(と言っても書簡を通じてであったが)のは、ウナムーノが雑誌『グラナダの守護者』に掲載されたガ二ベットの文章に接してからであった(33)。二人は、一八九八年、その雑誌を通じて、共通のテーマである『スペインの未来』をめぐって往復書簡を交わすことになる。この往復書簡を読むことによって、両者の見解のもう一つの相違点が明瞭になってくる。特に両者が、ドン・キホーテをスぺインに重ね合わせるその重ね合わせ方において決定的な違いを見せるのである。

  ウナムーノは、ドン・キホーテとサンチョを、彼らを分けながらも彼らを一致させるその調和的二重性において、一般に人類の永遠のシンボルであり、とりわけスペイン民族の永遠のシンボルであるとみなす。さらに彼は、数々の偉業を企てたドン・キホーテを、自国をかえりみずに外部へと自己拡大をはかったスペインに重ね合わせて、われわれはドン・キホーテ的狂気が有するインモラルな側面に死んで、善人アロンソ[ドン・キホーテの本名]のモラルな健康のうちに生き返らなければならないし、『ドン・キホーテ』の中の司祭が叫んだ「善人アロンソ・キハーノは真に死に、真に正気である」という言葉を、自分たちもまた言われることを切望しなければならない、と言う(34)。
  それに対してガ二ベットは、スペインは不条理の国、形而上的に不可能な国であって、不条理こそその支え、その主要な支えであり、正気に戻ることは死を意味する、と言う。また、ウナムーノは”銀月の騎士”に敗れ、あらゆる過去の栄光の夢に破れて故郷に帰ってくるドン・キホーテにスペインの姿を重ね合わせているが、しかしガニベットは心なきヤングア人にさんざんな目に合わされて帰ってくるドン・キホーテの姿にスペインの姿を見ている。つまりスぺインは第一回目の出立しかしておらず、さらに第二、第三の出立が残されていると考えるのだ。ガニベットはスペインが本来の姿に立ち返るためにすべて戸口を閉めるように主張したが、しかしただ一ヵ所半開きにした戸口を残しておいた。すなわちアフリカである。アラビア人の従者を引き連れて新しい冒険、真実スペインに適った望見に乗りだすべきなのだ。以上がガニべットの所論である(35)。
  スペインの未来をめぐるこの両者の往復書簡を読むとき、われわれが考えに入れておかなければならないことがいくつかある。まずこれらの書簡が、一八九八年の米西戦争を拝啓に書かれているということ、ウナムーノはその前年、大きな精神的危機に遭遇し、それまでの実証主義的、進歩主義的姿勢からより実存的な傾向を持つようになったが、しかしまだ以前の痕跡が残っているということ、またこれらの書簡を交わしてからまもなく、すなわちその年の十一月二九日、現在ではソビエト連邦ラトビア共和国の、首都リガを流れるドビナ河で、ガニべットが多くの謎につつまれた自殺をとげたということである(36)。

  以上のことを考え合わせてみるとき、この往復書簡によってガニべットと再会したことが、以後のウナムーノに対していかに決定的な影響を及ぼしているかが分かる。簡単に言うなら、この書簡に現れるガ二べットは、その時点のウナムーノよりもさらにウナムーノ的であるという事である。もちろんウナムーノがついに認めることができなかったガニべットの見解もいくつかある。たとえばガニべットが強調したスペインに対するアラビアの影響(グラナダ出身のガニべットには当然の主張だが)や、セネカ哲学に対するガニべットの当然の心酔などがそれてである。アフリカに対する第二の出立などもけっして認めることはできなかったであろう。しかしドン・キホーテの狂喜に対する評価、進歩に対する否定的見解、スペインの理想主義的側面への理解などに関して、はるかにウナムーノ的である。
  ウナムーノは同年六月、『死せドン・キホーテ』、同じく七月、『生きよアロンソ・キハーノ』さらに『ドン・キホーテ再論』という一連のエッセイを書いているが、そこでは正気のアロンソ・キハーノの生を、そして狂気のドン・キホーテの死を要求している。「ドン・キホーテの狂気を癒し、正気をとりもどすためのお養生法、厳しい養生法が必要である。ひとたび正気が、つまり物事に対する正しい判断力が戻るなら、ドン・キホーテ大歓迎である。そのときは狂気の人ではなく、善人アロンソ風の誠実な郷士となっているであろう」(37)。
  しかし時を同じくして起こったスペインの敗北、理想主義者というより神秘主義者ガニべットと交わした往復書簡、さらにそのガニべットが遠く北国の都で、彼の小説の主人公ピオ・シッドと同じく故郷を見ずして突然の自殺をとげたことなどが、ウナムーノの内面に大きな変革を迫ったことは確実ではなかろうか。
  以上ウナムーノとガ二べットの内面主義、ならびに両者のドン・キホーテ解釈を比較してきたが、結論として言えることは、歴史を越える視点を獲得しているという点では、ウナムーノはガ二べットに一歩先んじているが、しかしそれを乗り越えるための強力な発条ともいうべき狂気の考察においては、ウナムーノよりガニベットの方により深い洞察があったと言えるのではあるまいか。

  ハビエル・エレーロのすぐれたガニベット解釈にも言われているごとく、ガ二ベットの自殺は多くの謎を秘めてはいるが、彼ガ二ベットにとっては彼の理想主義の当然の帰結でもあった。いわば彼は彼の理想=狂気に殉じたのである。ウナムーノはこのかけがえのない友人の死を受けとめ、それを乗りこえなければならぬという大きな課題を背負いこんだ。しかしすでにウナムーノはガ二ベットのセネキスモ、この自ら選ぶ死を認めるストア哲学のうちに、外見はキリスト教に似ていながら、内実はついにキリスト教とは相容れない異郷のモラリズムの匂いを嗅ぎつけていたといえる(38)。ウナムーノの言うドン・キホーテは、むしろこの世にとどまって闘い続けなければならない、あえて嘲笑に身をさらして生き続けなければならなかったのである。


四 荒野に叫ぶ声
――ドン・キホーテ的狂気に向かって――

  さてわれわれはこれまで、ウナムーノがメネンデス・べラーヨ、ガ二べットとの出会いを通じていかに彼独自のスペイン哲学を構想するに至ったかをたどってみたのであるが、しかし彼の言うスペへイン哲学そのものに関しては、まだ何ら具体的な考察を加えてこなかった。残された紙幅でそれに簡単に触れておきたい。
  ウナムーノは,拙論の最初のところでも触れておいたように、『生の悲劇的感情』の最終章「現代ヨーロッパの悲喜劇におけるドン・キホーテ」の中で、メネンデス・ペラーヨやガニべットの言うスペイン哲学と対比させつつ、彼のスペイン哲学がいかなるものかを語っている。まずメネンデス・ぺラーヨが、ルイス・ビーベスの哲学をスペイン哲学として選んだことに関してはそれは彼がこのルネサンスの人文主義者と同じく折衷論者であり、ハメ・バルメスのように、何事にもおのれを賭けることをしないコモン・センスの哲学の影響下にあったからであるとし、彼はつねに内的闘争を避け、妥協によっておのが意識をごまかしたと批判する。次にアンヘル・ガニベットがセネカ哲学をスペイン哲学として擁立したことに関しては、セネカ哲学が思想的独創性は持たないが、その強弱と調子においてたしかにスペイン的、そしてローマ、アフリカ的(ギリシア的ではない)であることを認め、その意味でメネンデス・ペラーヨより確かな鉱脈を掘り当てている、と評価する。

  しかしながら、われわれがスペイン思想の英雄として求めなければならないのは、けっして肉と骨のうちにこの世を生きた哲学者ではなく、虚構と行動の存在者、すべての哲学者よりもさらに現実的な存在者、ドン・キホーテである、と言う。
  ウナムーノがこの狂気の遍歴の騎士を、そうありたいと夢想するミゲル・デ・ウナムーノ、そうあれかしと希求するスペイン、の偉大な道標と仰ぐのも、ドン・キホーテが、「拙者は自分が何者であるかを承知している」と言うことができたからであって、ウナムーノに言わしめるなら、自分が何者でありたいかを承知していたからである(39)。彼はたびたび、アメリカのユーモア作家オリヴァー・ウェンデル・ホームズの三人のフワン(ジョン)の区別を引用する。人にはそれぞれ三人の自分(フワン)がいる。フワンが自分でそうだと思っているフワン、他人が彼をそうだと思っているフワン、そして現実あるがままのフワンである。しかしウナムーノにとって、より真正な意味でのフワンは、フワンが自分でそうありたいと望んでいるフワンなのだ。人がもし神のさばきを受けるとしたら、それはいまあるがままの自分によってではなく、そうありたいと願う自分によってである。なぜならそうありたいと願うその自分こそ、百パーセント自己の責任と自由と意志のもとにある自分だからである。ドン・キホーテがそうあれかしと願う自分は、不滅に生き続ける自分であった。
  ウナムーノが一九〇五年に発表した『ドン・キホーテとサンチの生涯』において次のように語るとき、すでにドン・キホーテの狂気の意味を彼独自の視点から再解釈していることがうかがえる。彼はガ二べットのドン・キホーテ解秋をさらに深め、それをスペイン哲学の根本に据えるのである。「……栄光と名声への切望は、ドン・キホーテ主義の内的精神であり本質であり、その存在理由なのである。……要は幾世紀も続く名を残すことであり、人々の記憶の中に生き続けることである。要は死なないことなのだ! 死なないことだ! 死なないことなのだ! これこそドン・キホーテ的狂気の究極の根であり根源なのである。死なないこと! 死なないこと!」(40)。

  ドン・キホーテは回心して死んだ。しかしわれわれのうちに残り、われわれのうちにあって生きているドン・キホーテ、より実存的なドン・キホーテは狂気から癒えたわけではない。いな、むしろ癒えたのではなく、さらにそれを深めたのである。おのれを不滅たらしめんために、暴力で天を侵す狂気の騎士となったのである。ウナムーノにとって、真に生きる、実存する(existir)ことは必然的に狂気に連なる。なぜならば、実存することは、自己の外(ex)に在る(sistere)こと、われを忘れる(fuera de si)ことだからである。その意味でキリストこそ最高の、神聖な狂人である(マルコ、V、二一)。しかし現代にあって魂の不滅を求めることは、おのれを嘲笑にさらすことである。神的なるものを求めたこの狂気の騎士に倣わんとする者が覚悟しなければならないことこそ、嘲笑に立ち向かうこと、いやそれ以上に嘲笑に身をさらすこと、嘲笑のうちにあって心くじけないことであるのもそのためである。
  しかしあえて嘲笑に身をさらすことのうちにてらいが含まれないであるうか。おそらくいちばん苦しい闘いは、おのれをおのれ自身の嘲笑にさらすことではなかろうか。近代的自我の萌芽は見られるが、しかしまだそれに充分目覚めていない黄金世紀のドン・キホーテとは違って、近代的自我の毒をしたたか飲んだウナムーノの、その近代そのものに対する闘いがより悲劇的な相貌を帯びるのもそのためである。先に触れたように、三つのR、すなわちルネサンス、宗教改革、そして革命を経て巨大にふくれあがった近代ヨーロッパに対して、むしろ中世(あるいは古代)、スペイン(あるいはアフリカ)を対置せんとするウナムーノもまた、ルソー、 『ルネ』、『オーべルマン』、レオパルディ、アミエル、ケンタル、そしてキルケゴールなど、近代的自我の相剋に悩む魂の表出者たちの系譜に正統に連なっているのである。

  十八世紀イギリスの小説家ホレイシヨ・ウォルポールは「感じる者にとって世界は悲劇であるが、考える者にとって世界は喜劇である」と言ったが、シェイクスピアのハムレットは劇中人物の一人ホレイショに対してこう語る。「ホレイショよ、お前の哲学が夢見るよりも、天にも地にもずっと沢山ものものがあるのだ」。ウナムーノはこれを霊的ハムレットから知的ホレイショへの言葉として解釈する(41)。ウナムーノのスペイン哲学が最終的に目ざす魂の不滅は、知性による哲学によってはけっして証明されない。そこに彼の哲学の要とも言うべき感情(センティミエント)の重要性が存する。「感情、良い名がないのでそう呼んでいるもの、予感をも含めての感情は、まさにすべての哲学を作り出すものであり、われわれの哲学をも作り出すもの」(42)なのである。ウナムーノはスペイン民族は確かに経験科学や推論科学にあまり適性を持っていないが、しかし内−世界(intramundo)に対する直感に恵まれていることもじゅうぶんありうると言う。人は理性によって生きるかも知れないが、夢で永生を生きる。カルデロン流に「人生は夢」とみなすことは、目覚めを、永生を信じているからである。しかし科学、技術文明の驚くべき進歩に対して、「それが永遠にとって何の意味があるのか」(Quid ad aeternitatem?)と問い、あるいはウナムーノのように「発明は彼らにまかせておけ!」(Que inventen ellos!)(43)と言ってそれに背を向けるなら、それは時代に逆行するのではないか、潮流はもうそのあたりには行かないし、そういった航路を取ればどんな所にいきつくかはすでに歴史が,痛ましい教訓をもって教えてくれたではないか、という反論に対して、『スペイン哲学について』の対話者の一人はこう答える。「しかしわれわれがそういった航路の奥深くまで入りこんだことはないなどと誰が言ったのかい? スぺインの失敗はスペイン民族が永続の本能を強く感じ、それを満たそうと努カしたことによるといったような結論を、君たちはどこから引っぱり出すんだ? そう、スペインの哲学はあった。しかし、その哲学の花がほころび始めると、定義屋たち、スコラ派の定義屋たち、主知主義者たちが,それを窒息させ、凍らせてしまったのだ。彼らは《合理的であらねばならぬ》、と言った。そして合理的であることをを頑強に拒んだ人々を閉じ込め、猿ぐつわをかました。

  時にあまり頑強に拒むと、焼いてしまったのだ。その時に、哀れなドン・キホーテが出現したが、偉大な生の夢想家、偉大な永生の生者である彼は敗走せしめられたのだ」(44)。おのれ自身の喜劇性を知る(ここにも悲劇性がある)われわれのドン・キホーテは、そうした教説がこの世で勝利するとは思わない。なぜならそれはこの世のものではないからである。むしろ勝利しない方がよい、とウナムーは言う。
  ここでもう一度われわれが想い起こさなければならないのは、ウナムーノが彼の実在のすべてを賭けて追い求めたスペイン哲学、ドン・キホーテの哲学がけっして狭隘な国粋主義的哲学ではないと言うことである。ウナムーノがドン・キホーテをスペイン哲学の中核に据えたのは、ほかでもなくドン・キホーテが「純粋なスペイン人であることによってそして何よりもまずその美しい死によって世界のものである」からである。(一)のスペイン問題に関して言うなら、彼はまさにヨーロッパの、そして世界のスペイン化を目ざすことによって、従来のヨーロッパ主義,スペイン主義を乗り越えたと言えよう。しかしそれによってスペイン問題が解決されたわけではけっしてなく、むしろそれはさらに悲劇的、逆説的、論争的性格を帯びてくるのである。ウナムーノの哲学が究極的に目ざすものは、何よりもまず肉と骨を備えた具体的人間であり、その人間の不滅性であった。彼は『生の悲劇的感情』の冒頭で、「われは人間なり。人間的ないかなるものもわれに無縁とは思わぬ」(Homo sum;nihil humani a me alienum puto)というテレンティウスの言葉を、さらに人間そのものに焦点を合わせて(人間的という言葉の曖昧さを避けて)、「いかなる人間をもわれに無縁とは思わぬ」(Nullum hominem a me alienum puto)と言い換える。彼は人間の魂を蚕食しおびやかす、現代のあらゆる形式のもとの非人間化への傾向に対して、ファウストのごとく「魂を返せ!」と叫ぶ。ゲーテは死の床にあって、「もっと光を!」と叫んだが、ウナムーノは「もっと熱を!」と叫ぶ。なぜなら闇の中で人は死ぬことはないが、寒さの中で人は死ぬ危険があるからである。彼はデカルトの「われ思う、ゆえにわれ在り」を、「われ人間なり、ゆえにわれ思う」と逆転させ、さらに「われミゲル・デ・ウナムーノたらんために考える」(Homo sum;ergo cogito;cogito ut sim Michael de Unamuno)と言い加える。

  理性絶対の近代ヨーロッパ文明に対する彼の闘いは、単に否定的な意味しか持たないのであろうか。風車に突進したドン・キホーテは狂気の騎士であり、いままた高度化した技術文明に闘いを挑むウナムーノも狂気の人とみなされる。ドン・キホーテが公爵の館に冷ややか、かつ荘厳な嘲笑のうちに迎えられたように、現代スペインのドン・キホーテたるウナムーノも、進歩主義者や高度成長論者の集まる科学的異端審問の法廷に、いささかの憐憫とそれに倍する冷たい嘲笑のうちに引き出される。
  「否定的作業と人は言うかも知れない。しかし否定的であるということは何を意味するのか。肯定的とは何を意味するのか。過去から未来へと、つねに同一線上を進む時間の中にあって、否定的なるものと肯定的なるものとのあいだの境界を示す零点はどこにあるのか」(45)。
むしろウナムーノの近代ヨーロッパに対する「否」は、大いなる肯定を内に秘めている。ウナムーノが一八九五年の『生粋主義をめぐって』の中で述べた次の言葉は、彼の思想を理解するための一つの鍵となるであろう。
  「完全なる真理はふつう除去法(via remotionis)によって、すなわち極端なものを排除することによって中庸の中に求められる。ところで極端なものとはその相互的機能と働きによって生のリズムを産み出すものであるが,そうした除去法によっては、ただ真理の影にしか、冷たく陰気な影にしか到達できない。私が思うに、それよりも好ましいのは、別の方法、つまり矛盾を交互に肯定する方法であり、読者の魂の中に極端なものをきわ立たせることによって中庸のものが魂の中に活気を帯びることである。生とは闘いの合成運動なのだ」(46)。
  ウナムーノの方法論はここに尽くされている。彼が理性、主知主義、教義、文字、文明、博学、生に立ち向かうのは、けっしてそれらを否定しさることではない。むしろそれらに抗して心情、霊性、信仰、言葉、文化、知恵、死を対立させることにより、魂が活気を帯びることを望んでいるのだ。

  ウナムーノの哲学、というより彼が目ざしたスペイン哲学は、いわゆる専門的立場から見れば哲学とは言えないであろう。したがって彼の作品が内包する思想を、論理の網にからめようとしても無理である。なぜなら彼は、「馬鹿げた教条的一貫性」に固執するのではなく、自己の思想的発展における「持統性」に忠実であろうとするからである。「一貫性」と「持続性」の言い換えが曖昧に思われるなら、「論理の一貫性」と「存在の一貫性」と表現してもよいだろう。この両者はたがいに連関し合うというより、たがいに他を排除する関係にあると言うことができよう。なぜならば生とは絶えざる実体変化であり、ひとたび文字となって固定化された意見に固執することは存在を論理に隷属させること、あるいは生ける言葉を死せる文字に従属させることになるからだ。ウナムーノがスペイン哲学を一つの学的体系として定義することをせずに、つねに生きて働く一人の人間、ドン・キホーテにその照準を合わせたのもそのためである。彼自身、「私はおそらくは詩、幻想、いずれにしても神話にすぎないものを哲学だと言ってごまかすつもりはない」と言っている。
  以上、ウナムーノが構想したスペイン哲学のアウトラインを述べてきたが、しかし彼の思想を科学的に客観的に一つの体系にまとめることは不可能である。それに「円を描いて動いているものを論理の糸に従わせることほどむつかしくまた死相を帯びているものが他にあるであるろうか!」。おそらくウナムーノをもっとも良く理解するには、彼が『ドン・キホーテ』に対して企てたように、自分独自の「ウナムーノ」を創造しつつ、それを生きることあろう。なぜなら人が生きるということは、自己を創造すること、自己を小説化すること(novelar)であり、すべての詩人、創造者、小説家は、登場人物を創造することによって自己を創り出すからである。
  最後に、彼の『生の悲劇的感情』の結びの言葉を引用して拙論を閉じたいと思う。
  「この世でのドン・キホーテの新しき使命は何か。それは叫ぶこと、荒野に叫ぶことである。たとえ人間が聞かなくとも、荒野が耳を傾ける。そしてそれはいつの日か音の反響する森へと変化するであろう。そして種子として荒野にとどまる孤独の声は巨大な杉となり、その幾万という舌でもって、生と死を司どる主なる神に永遠に讃歌(ホザンナ)をうたうであろう」。



(1) これは『小説はいかにして作られるか』の仏訳ジャン・カスーが、その
  巻頭に載せた「ウナムーノの肖像」の中で語った言葉である。 Obras
  Completas de Unamuno,vol.VIII,EscelicerS.A.,Madrid,1970,p.714.
(2) O.C.de Unamuno,vol.I,p.1271.
(3) O.C.de Unamuno,vol.III,p.637.
(4) O.C.de Unamuno,vol.VIII,p.253.
(5) メネンデス・ペラーヨとメネンデス・イ・べラーヨと二通りの呼び方があるが彼の直系の弟子のアルティーガスやサンチェス・レーイェスなどは前者をとっている。メネンデス・ペラーヨ自身、一八七八年の署名には二つの姓を結ぶ(イ)を省いている。
(6) Cf、Obras selectas de Jose Ferrater Mora,Revista
  de Occidente,Madrid,1967,p.45.
(7) P.Garagorri:Unamuno,Ortega,Zubiri en la filosofia
  espanola,Madrid,1968,p.188に引用されているウナムーノのアンドレス・ニン宛ての書簡中の言葉。
(8) 神吉敬三、A.マタイス、J.マシア、佐々木孝編集 「ウナムーノ著作集」全五巻中のI『スペインの本質』(法政大学出版局、一九七二年)、一四ページ。
(9) 前掲書、三八ページ。
(10) アンセルモ・マタイス、佐々木孝共訳、『ドン・キホーテに関する思索』 (現代思潮社、一九六八年)五三ページ。
(11) 小島威彦訳、『ヨーロッパの略奪』(未来社、一九七二、第四刷)、一一三ページ。この書の第三章「スペインから見たヨーロッパ」は、スペイン問題を考えるための格好の手引きとなってくれる。
(12) Dolores Franco,Espana como preocupacion,Ediciones
  Guadarrama,Madrid,1960,p.45.
(13) 前掲書、一〇四ページ。
(14) 『スペインの本質』、一四六ページ。
(15) Obras Completas de Menendez Pelayo,vols.LVIII y LIX,Consejo Superior de Investigaciones Cientificas,Santander,1953. 『スペイン科学』と題されるものは、実は五種類ある。第一版(一八七六年)は七つの論文に一つの補遺、第二版(一八八〇年)は第一版の七番目の論文削除(『スペイン異端者史』の要約ゆえ)の上、さらに九つの論文を加えたもの、第三版(一八八七―一八八八年)は全三巻で、これには、第一版、第二版に収録されなかった論文を追加したもの、死後出版されたスワレス版はさらに二篇追加したもの、『メネンデス・ペラーヨ全集』の第五八、第五九巻(一九五三年)は論争相手のラ・れびーりゃなどの論文六編をさらに加えたものである。したがってわれわれはこの『全集』収録の諸論文を読めば、論争の全容をほぼ
  つかむことができる。
(16) 前掲書、四九―五四ページ。
(17) O.C.de Menendez Pelayo,vol.LVIII,p.29.
(18) O.C.de Menendez Pelayo,vol.LIX,p.273.
(19) 『スペインの本質』、二一―三二ページ。
(20) ウナムーノが進歩主義、実証主義の影響から脱するのは、一八九七年の精神的危機を待たなければならない。このとき、理性に対する楽観的な信仰が土台からくずれ落ちると同時に、幼年時代からの幸福な信仰(これはマドリード遊学のときからすでにくずれはじめていたが)が決定的に消滅し、かわって懐疑に裏打ちされた、苦悶そのものである信仰が芽生えた。
(21) 『スペインの本質』、一四九―一五〇ページ。
(22) O.C.de Unamuno,vol.I,p.1231.
(23) Ibid.,p.1228.
(24) 前掲書、一八ページ。
(25) O.C.de Unamuno,vol.I,pp.1272-1273.
(26) O.C.de Unamuno,vol.III,pp.1231-1233.
(27) 内面主義(interiorismo)という視点から、ウナムーノ、ガニベットを捉え
  ているのは、ライン・エントラルゴである。P.Lain Enralgo:Espana como
  problema,Aguilar,Madri,1962,3 ed.,pp.551-558. なお、ガニベットの『スペ
  イン精神考』に関しては、上智大学のJ・ソペーニャ教授の優れた論考
  ”La Espana del siglo XIX a traves del pensamiento de
  A.Ganivet”,Universidad Sofia,Tokio,1964,があったことを本論文執筆後に知った。
(28) O.C.de Unamuno,vol.I,p.1229.
(29) 『スペインの本質』、三〇ページ。
(30) Angel Ganivet:Idearium spanol,Espasa-Calpe,S.A.,
  Madrid,1966,7ed.,pp.123-124.
(31) Ibid.,p.9.
(32) Op.cit.,p.557. もっともウナムーノにしても、この聖アウグスチヌスの言葉
  (“De vera religione”,39.72)を、「人間の内部に」(dentro del hombre)と解している。『スペインの本質』、二二六ページ参照。両者とも聖アウグスチヌスの本分、in interiore homine(内なる人間に)を誤って記憶していたようである。
(33) 二人の関係については、M.Garcia Blanco:En torno a
  Unamuno,Taurus,Madrid,1965 に詳しい。
(34) O.C.de Unamuno,vol.III,pp.643-645.
(35) Ibid.,pp.656-658.
(36) A・ガニベットの自殺については、Javier Herrero:Angel Ganivet:un
  iluminado,Editorial Gredos,S.A.,Madrid,1966,が詳しい。
  外的要因として、進行性麻痺の悪化とか、ヘルシンキのスペイン領事館が閉鎖されたためにスペインに帰していた愛人アメリアが不貞をはたらいたという匿名の手紙を受け取ったこと(彼はアメリアがリガに到着するその日に投身自殺をした)などが考えられるが、しかし彼の自殺はもっと深いところにあったとして、エレーロは作品からいちいち例証をあげている。だがフェルナンデス・デ・モーラなどは、このエレーロのガニベット論はあまりにも理想主義的解釈であると批判的である。Gonzalo Fernando de la Mora:Pensamiento Espanol,1966,Ediciones Rialp,S.A.,Madrid,1968,pp.221-227 参照。
(37) O.C.de Unamuno,vol.VII,p.1202.
(38) O.C.de Unamuno,vol.III,p.645.
(39) ウナムーノ著作集U『ドン・キホーテとサンチョの生涯』(法政大学出版局、一九七二)、五三―五五ページ。
(40) 前掲書、三〇七―三〇八ページ。
(41) 『スペインの本質』、一九七ページ。
(42) 前掲書、二三三ページ。
(43) O.C.de Unamuno,vol.VII,p.288.
(44) 前掲書、二二九―二三〇ページ。
(45) op.cit.,p.289.
(46) 前掲書、七ページ。


『思想』、1973年2月号、岩波書店

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