佐々木孝 評論集

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新しいスペイン像の模索

一、スペイン文化の二つの頂点
 もし仮に、一国の文化創造のエネルギーを計量化し、それをグラフにすることができるとしたら、スペイン文化史のそれには二つの大きな山を認めることができよう。第一の山は、いうまでもなく十六、十世紀のかの有名な「黄金世紀」である。そして次の山は、長い低迷期のあと、十九世紀末になってようやく訪れた第二の黄金世紀(というより半世紀)、すなわち一八八五年ごろに始まり、「九八年の世代」の活躍を経てスペイン市民戦争(一九三六―三九)直前まで続く黄金の半世紀、第二のルネサンスである。
 すでに見てきたように、第一の山である黄金世紀は、その高さ、その裾野の広さからいって第一級の山であり、文字通りの分水嶺であった。すなわち中世というキリスト教的ゴチック的世界と、近代という自然主義的バロック的世界との分水嶺であった。
 ところで第二の山はどうであろう。一般に十九世紀末のヨーロッパ社会の退廃の気風を指して「世紀末」という。もちろんそれぞれの世紀にそれぞれの世紀末が訪れるが、十九世紀のそれは並みの世紀末とちがって、底深いところで地殻の大変動が起こったようだ。
 スぺインとて例外ではない。これをひとまず近代から現代への移行期と名づけることができよう。これまた分水嶺である。そしてそのような大きな変化は、かならず危機を伴っている。スペインの場合は、米西戦争の敗北である。このときスペインは、キュ-バ、プエルトリコ、フィリピンなど最後の植民地を失い、厳然たる没落の事実に直面した。
だが、そうした変化が突如訪れるものでないことも確かだ。それ相当の準備期間がある。その意味で十九世紀全体が重要な意味を持っている。つまり人類の歴史において、山だけが重要なのではない。谷もまた負けず劣らず重要であり、必要なのだ。そういう視点から十九世紀を眺めてみよう。


二、スペインについて書くことは泣くことである
 すると十九世紀前半、まるで困憊しきったスぺインそのもののように生き、そして挫折した一人の知識人の姿が見えてくる。マリアーノ・ホセ・デ・ララ(一八0九―三七)である。彼の父はジョゼフ・ボナパルトの軍医であったため、フランス軍撤退に伴って一家はフランスに亡命しなければならなかった。一八一八年の大赦で帰国を赦されたが、多感な少年期をボルドーで送った彼の眼に、祖国スペインの姿は悲惨そのものと映る。彼は若いときから、検閲の眼をかいくぐりながらさまざまなペン・ネームを使って(もっとも有名なのはフィガロである)、現状批判の文章を新聞、雑誌に発表していく。スペインにおける最初の本格的なジャーナリストの誕生である。しかし人妻との恋愛事件の果てに、一八三七年、二十八歳の若さでピストル自殺を遂げてしまう。
 後に登場するガニベットの場合もそうであるが、個人的な不幸や苦悩が不思議と国の不幸や苦悩と重なってしまう人間がいるものだ。 わが国の北村透谷の例などがこれに近い。一八三三年に勃発し、以後スペインを二つに分断する内戦、いわゆるカルロス戦争、さらにペストの流行などがララ思想を暗く彩った。彼は理論的にスペインを論じたのではない。むしろスペインの宿痾を自らの精神と肉体に痛みとして感じたのである。 彼はあるエッセイの中でこう書いた。「マドリードでものを書くことよ泣くことである」。
 十九世紀スペインにとって最大の関心事は、自国の文化的・政治的・経済的後進性をいかにして打開するかということであった。換言すればヨーロッパ先進諸国にいかに追いつくか、つまりヨーロッパ近代との対決の問題であった。十八世紀スぺインが、ブルボン王家の支配もあって圧倒的にフランス文化の影響下にあったとすれば、十九世紀スぺインは、対ナポレオン戦争(独立戦争)以後、それまでの反動から、自国の文化的後進性打開の先達としてフランスよりドイツを選ぶことになる。


三、自由教育学院
 明治の日本と同じく、十九世紀スぺインも優秀な人材をドイツに送って、学問の移植をはかろうとした。一八四三年、一人の少壮学徒サンス・デル・リオ(一八一四―六九)が政府派遣の留学生としてドイツにおもむく。この留学は彼自身が哲学を学ぶというより、もっと実利的な目的、すなわち祖国スぺインに移植するにもっとも適した哲学は何かを物色するという目的を持っていた。当時ドイツ哲学の主流はもちろんへーゲル哲学であったが、サンス・デル・リオが白羽の矢を立てたのは、へーゲルとは対照的に、一生大学教授の席を得られれずに不遇に終わったクラウゼ(一七八一―一八三二)の哲学である。この判官びいきとも言うべき選択には、しかしそれなりの理由があった。つまりスペインの伝統的な思想と折り合いをつけるには、へーゲル哲学では急進的にすぎ、同じ合理主義哲学のなかでもクラウゼの唱える万有内在神論が、ちょうど両者の橋渡しをするのに都合がよかったという事情である。
 ともあれこのクラウゼ哲学は、十九世紀中葉のスぺインに大きな影響を与えることになる。それも哲学的というより、倫理的、教育的な影響である。具体的にいうなら、このクラウゼ哲学から、一八七六年に「自由教育学院」という、十九世紀後半のスぺイン教育界に一大新風を吹きこむ改革運動が起こったのである。直接的なきっかけは、クラウゼ主義者たちが、保守的な政府によって教壇を迫われたことであった。はじめ彼らは主に忠等教育の改革をめざした。修道会や教会からの教育の独立、男女共学、情操教育や保健体育の充実など、それまでのスぺインでは考えられなかったような合理的な教育理念がつぎつぎと実践されていった。本家本元のクラウゼ自身思いもよらぬような形で、その哲学がスペイン再生の強力な手段として機能したのである。


四、スペイン科学論争
 だが、こうした革新的なスペインに対して、保守的なスペインが黙っているはずがない。ポルトガルの歴史家フィゲイレード(一八八九―一九六七)の言う「二つのスペイン」という図式がここにも見られるのだ。その事実をもっとも明確に示したのは、一八七六年にはじまるいわゆる「スペイン科学論争」である。ここで諭争の経過を逐一紹介するわけにはいかないが、論争の中心テーマは、要するにスペインに科学(学問)があるのかないのか、という問題である。発端は、進歩的な知識人の側から、スペインには見るべき学問の伝統は存在せず、われわれはすべからくその模範をヨ-ロッパ先進諸国に仰ぐべし、という発言に対して、メネンデス・ペラーヨ(一八五六―一九一二)に代表される伝統主義者たちが激しく応酬したことにある。
 ちなみに、ペラーヨが挙げたスペインの学問的伝統の主だった人たちを並べてみよう。
セネカ(前四頃~後六五)……コルドバ生まれのローマのストア哲学者。
イシドーロ(五五〇頃~六三六)……セビーリャの大司教、西ゴート時代を代表する学者。
アベロエス(一一二六~九八)……コルドバ生まれの最大のアラビア哲学者。
マイモ二デス(一一三五~一二〇四)……コルドバ生まれの最大のユダヤ哲学者。
ラモン・リュル(一二三三頃~一三一六)……異教徒にキリスト教の真理を伝えるための普
  遍学(“大いなる術”)を作ったことで有名。
ビーべス(1四九二~一五四〇)……生涯のほとんどを国外で活躍したスペイン最大の人
  文学者。
スアレス(一五四八~一六一七)……イエズス会の神学者。新スコラ学派の祖。
 おもしろいのは、ここに挙げられた人たちの中で、三人までもがスペイン人とするには躊躇する人たちだということである。つまりスペイン人というよりローマ人というべきセネカ、アラビア人というべきアべロエス、ユダヤ人というべきマイモ二デスがそれであり、われわれにここにスペイン文化の縮図を見る思いがする。


五、内面への道
 ともあれ、論争そのものは結局痛み分けというか、不毛のままに終わってしまった。つまり進歩主義者の方は自国の伝統についてほとんど無知であり、一方伝統主義者の方も外国の学問についてまるで素人だったからである。ただ、この不毛性それ自体は、心ある知識人にとって一つの啓示のようなものとなった。従来のような伝統主義(あるいはスペイン主義)か進歩主義(あるいはヨーロッパ主義)か、という二者択一によっては、スペインの再生はもはや不可能であることがはっきりしたからである。分かりやすく図式化すれば、伝統主義者のモットーは「後退せよ!」であり、進歩主義者のそれは「前進せよ!」であるが、この二つの方向だけでは行き止まりだということである。
 ここに登場するのがもう一つの方向、すなわち「内部へ」向かう道である。これには、二人の若いスペイン知識人が関係してくる。一人はグラナダ生まれのアンへル・ガニべット(一八六五~九八)であり、もう一人はバスク生まれのミゲル・デ,ウナムーノ(一八六四~一九三六)である。ガニべットは領事としてヨーロッパ各地をめぐりながら祖国スペインに思いを馳せ、ウナムーノは大学都市サラマンカのギリシア語教授、そして総長として、新しいスペインの道を模索した。両名ともすぐれた作品を多く残したが、ここで特に注目したいのは、ウナムーノの『生粋主義をめぐって』(一八九五)と、ガニべットの『スペインの理念』(一八九七)である。なぜなら、ほとんど同時に構想されたこれら二つの作品に、従来のスペイン論には見られなかった新しい視点、新しい方向が見られるからである。
 ウナムーノは、内―歴史という新しい概念を導入する。つまり歴史が歴史たりうるのは、その内部に、ちょうど深い海のように広がる内部の歴史が存在するからである。黄金世紀は確かに傑出した時代ではあるが、従来の伝統主義者が考えるように、スペインにとって唯一可能の完成態ではなく、可能性としてのスぺインのたんなる一例にすぎない。真にスペインが再生するためには、歴史の内部にある永遠の伝統を掘りさげるべきである。換言すれば、スペイン人一人一人のうちに存在する民族の魂に沈潜する以外に再生の道はありえないというのである。

 アンへル・ガ二ベットは、聖アウグスチヌスの有名な言葉を援用してこう語る。 外部に向かうな。真理はスペインの内部に宿っている」。そして新大陸、ネーデルラント、イタリアと「むなしい栄光を求めて世界中に散らばり、国家を予備軍の兵営に、老弱者の病院に、乞食の温床」に変えた過去の栄光を憂える。
 両者は『スペインの末来について』という往復書簡を交わすなど、そのスペイン論のさらなる深化が期待されたが、ガニべットが任地先のラトビア共和国の首都リガで、一八九八年、つまり米西戦争敗北の年、投身自殺を遂げたことで対話は中断されてしまった。
 一般に「九八年の世代」と呼ばれるのは、この米西戦争敗北の年に三〇代になっていたウナムーノなど一群の思想家、作家の総称であるが、以上見てきたように、敗北によって突如覚醒したわけではない。また戦争そのものも、両国(アメリカ合衆国とスぺイン)のあまりの力の差のため、まことにあっけない幕切れであった。だから九八年の敗北は、十九世紀全体を通じて底深く醸成されてきたスペイン再生への願いが、一挙に表面化するきっかけを作ったというべきである。この世代には、ウナムーノを筆頭に、小説家バリェ・インクラン、同じくピオ・バロッハ、評論家ラミロ・デ・マエストゥ、アソリン、詩人アントニオ・マチャードなどが含まれる。彼らはスぺインの再生を、ウナムーノの言う内―歴史、スペインの永遠の伝統を掘り起こすことに求めたという点で一様に内面主義者である。


六、夢想から現実へ
 しかし彼らの内面主義が、ウナムーノに見られるように、いささか現実から遊離した理想主義、むしろ夢想に傾いたことも否定できない。その軌道をふたたび現実的なものに修正することが、次代のオルテガ(一八八三~一九五五)やアメリコ・カスト口(一八八五~一九七二)などの仕事となった。
 特にオルテガは、ウナムーノがいささか強引に理性と生を敵対させて反理性主義を標榜したのに対し、スペインにいま必要なのはむしろ理性であり科学であると主張した。しかしその理性は、近代が進むにつれていよいよ狭隘化してかたそれではなく、生ける理性、歴史を生きる理性である。スペインが長い昏迷ののちふたたびかつての知的活気を取り戻し、いわゆる「時代の高さ」に浮上することができたのは、彼の力によるところ大である。

 最後にアメリコ・カストロについて一言しておきたい。彼はその著『スペインの歴史的現実』(一九五四)などをもって、従来のスペイン史観を大きく変えた。つまりスペイン史の内部構造、あるいはスペイン人の生の住処を、イスラム文化、ユダヤ文化、そしてキリスト教という三つの力の衝突、軋轢、その相互浸透という視点から再構築したのである。
 内戦という惜しんでもあまりある空白があったにもかかわらず、独自でしかも普遍性を秘めたスペイン文化をめぐって、すぐれた研究や見直しがいよいよ盛んなのは、これら先人たちの努力の賜物と言わなければならない。

『世界の国シリーズ スペイン・ポルトガル』
             講談社、一九八三年

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