佐々木孝 評論集

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高橋康也著『道化の文学』評

 かつての日々、と言っても私にとっては昭和二O年代であるが、たとえば秋風の吹くころ、物悲しいじんたの音と共に町々を訪れたサーカスの一座は今どこにいるのだろうか。今も都会の遊園地などに、季節の推移と関係なしに、不意にサーカス小屋が出現することもあるのだから、まったく消滅してしまったわけではないのだろう。しかし物悲しいながら胸ときめかすあの華やかさはそこにはない。かつての日々、サーカス小屋を被っていたあの神秘の光暈はもはやない。また、季節の移り変わりを告げ知らせるかのように或るきまった頃あいに門前に立つほがいびと、祭と共にめぐってくる大道芸人、香具師などの姿を見かけることもなくなった。
 ところで彼らが持っていた不思議な魅力は、その存在自体が両義的であったことから来る。つまり社会的な出自からするなら「卑種」に属し、一般人が知らない世界、価値体系の所有者であることにおいて「貴種」に属していたからである。彼らは「日常性」の中に新鮮な「非日常性」を持ちこんだ。だがその「非日常性」は同時に無用性であり、彼らが作りだす空間が無用の空間、虚空であったことから、「有用性・効用性」を第一とする時代に押しのけられてしまったのも当然かも知れない。最近、神話学者や人類学者がトリックスターを取りあげ、あるいは小沢昭一氏などが大道芸人の世界を取りあげているのも、おそらくその底には、失われたものに対する郷愁にかられての遡及だけでなく、豊かな人間形成にとって必要不可欠の薬味とも言うべきもう一つの価値体系を亡失した現代に対する批判がこめられていはしないか。
 さて高橋氏の近作『道化の文学』のかくれたモチーフもそれと同じ文脈に位置づけることができそうである。道化本来の機能は何か。氏は次のように定義する。「フィジス(ギリシャ語で自然・形而下・肉体の意)をノモス(ギリシャ語で掟・法律・制度・慣習の意)よりも根源的なものとみなし、自然的存在としての人間の肉体的本能を容認し、快楽と幸福への欲望を〈ノモス〉の抑圧から解放する」こと。そして道化を「賢と愚、理性と狂気、破壊と創造、死と生など、あらゆる両義的価値に両股かけた存在」であると言う。

 本書の副題が「ルネサンスの栄光」とあるように、ここでは中世以来の事実としての道化を文学的に結実させたルネサンスの四人の天才、エラスムス、ラブレー、シェイクスピア、セルバンテスが扱われている。まずプロローグで道化の持つ多様性に光を当てたあと、それぞれの作家が表出した道化の分析に入っていく。ユマニストたるエラスムスの道化は神秘的な地母神である「痴愚神」、ラブレーの道化は巨人ガルガンチュワ父子、あるいはパニュルジュなどの「豊饒の道化」であり、シェイクスピアの道化は『お気に召すまま』のタッチストーンや『十二夜』のフェステ、『へンリー四世』のフォールスタフ、さらに道化もどきのハムレット、狂気の道化リア王とさまざまな変奏曲をかなでる。シェイクスピアの章のサブタイトルは文字通り「変貌する道化」となっている。そして最後に「セルバンテス――あるいは鏡の国の道化」が来る。心憎いまでの構成であり、道化の種々相、その変貌が実にあざやかに描かれている。
 さてセルバンテス以外の三人の文学者について評者は浅薄な知識しか持ち合わせておらず、また紙幅の残り少ないことも考えて、最後にセルバンテスに関して少々述べることにする。
 高橋氏はハムレット、リア王あたりからの道化そのものの変貌(佯狂、狂気)というより変質のきざしに触れたあとで、ドン・キホーテが従来の道化と決定的に異なる点を指摘する。すなわち君主でない主人公として現われた最初の人物であり、中心性には無縁の存在であること、さらに道化の機能の百八十度の転向がそれである。つまりフィジスの側からのノモス批判という道化本来の機能が、ドン・キホーテにおいてはフィジスを抑えてのノモス(騎士道)の護持になっていることである。道化の機能が変化したとき、道化の本質はどうなるのか、道化という同一のカテゴリーに括れるだろうかという問題は残るが、しかしドン・キホーテが、「ルネサンスの道化の描いた軌跡に最後の弧を書き加え、それによっていわば止めの一刺し(クー・ド・グラース)を与えた」という指摘はそれ以上に説得的であり、疑問の余地を残さない。
 果してスぺインに、言うところのルネサンスがあったかどうかはともかくとして、セルバンテス自身がルネサンスの影皆を深く受けていたことは確かである。ならば、なぜセルバンテスにおいて道化が完成されると同時に或る決定的な変質をこうむったのであろう。高橋氏の言われるようにそこに時代の必然があったことは事実であるが、同時にスぺインの特殊性が働いていたことも確かである。たとえはガルガンチュワの世界が豊穣と飽食のそれであったのとは対照的に、ドン,ギホーテの世界が貧困と飢えのそれであったこと、そしてようやくヨーロッパ諸国にナショナリズムが芽生えていたのとは逆に、スぺインは相変わらず中世の夢を、あるいは、普遍的世界(力トリシダー)の夢を追っていたことがそれである。ノモスがもはやノモスとして機能しない近代の入口でノモス擁護の姿勢をとる愁い顔の道化である。ここに道化の円環が一応は閉じられる。
 しかし、高橋氏は道化論の円環を閉じると同時に開いている。すなわち新しい典型たる反道化のピカロへの言及である。このピカロ論が書かれたとき、氏の「道化論」はさらにふくらみと奥行きを獲得するであろう。大いに楽しみである。


「東京大学新聞」
        一九七七年六日二七日号

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