日本文学の部屋

日本文学の部屋

埴谷雄高 読み解く難解な文章 年配者ら格闘


 小高町本町の浮舟文化会館内に埴谷島尾記念文学資料館がある。ここが主催する文学講座は今年度、埴谷雄高を中心テーマに短編やエッセーを読み解いてきた。末完の大作『死霊』を残して97年に亡くなった埴谷は、父親が小高町出身。地元の大作家の難解な文章に、十数人の年配者が1年間取り組んだ。(友清裕昭) ※なお上の写真には「埴谷雄高の短編『寂寥』の解説を聞く受講生たち」というキャプションがついている。
  埴谷の本名は般若豊。96年に小高町から資料館建設の承認を求められた時ぺンネームについて和紙に「雄高は小高より、発せり」と墨書して寄贈している。埴谷は自らと交友があり、両親が小高町出身でもある作家・島尾敏雄との共同資料館ならと承認し、現在の施設が00年にオープンした。
  文学講座は03年度に始まった。初年度は島尾中心に取り上げたため、今年度は埴谷が中心テーマになった。
  講師は原町市に住む東京純心女子大元教授・佐々木孝さん(65)。埴谷の作品について「正直言って難解だ」という。そこで、さまざまな短編やエッセーを手がかりに、「埴谷作品が闇にこだわるのはなぜか」などを考え、そこからさらに人間の心のあり方一般に広げて話している。島尾についてもよく触れる。
  埴谷が小高に来た時のエッセー『無言旅行』には、相馬の野馬追に「島尾敏雄君の甥が私をさそい、案内してくれた」とある。その甥が佐々木さんだ。正確には、島尾と佐々木さんの母親がいとこだそうだ。
  昨年4月から月1回開かれてきた講座には当初、21人が受講者として登録した。全員が40代以上。だが、ほぼ3分の1は難しさについて行けず、1年のうちに脱落した。
2月の講座では『寂寥』が取り上げられた。「太古の闇と宇宙の涯から涯へ噴く風が触れあうところに、そいつはいる」という書き出しだ。
  佐々木さんは朗読し、「大仕掛けでおどろおどろしい文章」だが、なぜそうなのかなどを解説し、「埴谷のやさしさは荒涼の極みに支えられている」と説明する。 「『そいつ』とは何だと思いますか」との佐々木さんの問いかけに、1人が「人間として求めるものかなと思う」と答えた。
  受講生の1人、小高町の主婦、井上民子さん(64)は「父が島尾敏雄のいとこでもあり、島尾さんの勉強をしたかった。講座は埴谷さんが重点で難しいけれど、何となく分かるような気がして、つい引き込まれる」という。
  井上さんに誘われて来ている自営業、松本セツ子さん(67)も島尾の親類だが「これまで生活に追われ、文学なんて学校卒業以来、開いたこともなかった。だが、作家が書いたときの心持ちなどが講義でなんとなくわかるようになった」と、受講を続けてきた成果を語る。
「そいつ」について答えた受講生は俳人で、今年の県文学賞俳句部門で最優秀の文学賞を得た江丼芳朗さん(70)だった。「俳句とは違った世界を知りたくて受けている。最近は『縄文に帰れ』などといわれるが、今日の講座で、縄文文化のような純朴でたくましいものが太古の闇につながっているのかなと思った」と、満足そうだった。

「朝日新聞」、第2福島版、2005年2月24日号

■書評■小川国夫『回想の島尾敏雄』

 昨年十一月に急死した島尾敏雄をめぐる随想集である。昭和四十年六月、島尾敏雄が当時無名に近かった藤枝の小川国夫を前触れもなく訪れてまもなく書かれた島尾作品への書評文から、本年九月、鹿児島の島尾宅に未亡人のミホさんを訪ねたときのものまで十五の文章が収められている。著者にはこのほか、島尾敏雄との六日間にわたる対談の記録「夢と現実」があり、本書と併せ読むことによって、われわれはこの二人の文学者が魂の深みで行った稀有(けう)な交流のおおよそを知ることができる。

  本書に収録されている文章群は、それぞれが折にふれて書かれた、量的にもけっして長い文章ではないが、しかしこうして一書にまとめられてみると、互いに不思議な共鳴音を発して、島尾敏雄その人、そしてその文学、の本質を見事に浮き彫りにする珠玉の回想集となっている。例えば島尾敏雄が小川宅を突然訪れたときのエピソードなどは、いかに島尾敏雄(ならびにその文学)が仮象を越えて、静かにそして柔軟に、魂の深淵へ側鉛を下ろしていたかが巧まずして言い当てられている。つまり対象との距離の取り方が計算ずくではなく直観的かつ自然に、むしろ魂の力学にのっとって行われているということである。

 だからこの二人の距離はその最初の出会いから最後(この地上での、という意味でだが)まで不動であったはずだ。留守宅に上がり込んでいた彼は、最初の瞬間から小川国夫の魂のいちばん柔らかな部分に、押しつけがましさなどみじんもなく、いとも自然に座っていた。ということは、小川国夫もまた同質の魂の力学に生きているということだ。小川国夫が、二人は「同じような精神の気象(クリマ)に生きていた」と書いているのもこの辺の事情を指している。
  それにしても、この二人の文学者の出会いと交流が、戦後文学史の中でも稀(まれ)に見る精神的ボルテージの高い清廉のそれであったかを、痛切に感じさせる回想集である。

(小沢書店、A5判、一二一頁、二〇〇〇円)(「静岡新聞」、1987年12月27日)

■書評■小川国夫『地中海の慰め』

 作家小川国夫が時々の注文に応じて書いた比較的長いエッセー七編が収録されている。副題が「旅と物語の思い出」となっていることからも分かるように、求められて書いた文章ではあるが、学者あるいは研究者の書いた理論的な西洋文化論もしくはキリスト教文明論とは違って、著者の個人的な体験と思索に裏打ちされた、実に興趣つきない読物となっている。
  ちなみにそれらの題名を列挙すれば、「新約について」「アッシジのフランシスコ」「聖なる百科全書ーーシャルトル大聖堂」「地中海の慰めーーダンテ〈天国篇〉」「海鳥のようにーーメディア」「かぐわしい香りーーゴーギャン」「スペインの思い出」であり、これだけでも小川国夫の小説世界の最重要部分を構成しているのが、ギリシャ以来の西洋文明を貫流する精神的遺産であることが改めて納得される。
  つまりメディアやゴーギャンを論じている文章からも明らかな通り、異教世界や「自然」をも含みこんだ太い流れとしてのキリスト教世界をその小説世界の発想の根源においているということである。ということは、小川国夫の感性が実に柔軟かつしなやかであり、「或る聖書」などで試みているのが、硬直し形骸化したキリスト教に原始の荒々しさ、活力を吹き込もうとしているのではないかとさえ思われる。
  それぞれのエッセーのスタイルは微妙に異なっているが、親しい語りかけの調子は一貫しており、創作の場合と違ってまことに伸びやかな筆致となっている。おそらく講演がベースになっていると思われる最後の「スペインの思い出」など、時にユーモラスで、登場人物たちの個性が立ち上がってくるような描写はさすがである。ガリシア地方の山焼きを描いたさりげない文章にも鋭く的確な表現が随所に見られ、小川国夫がまれに見る視覚型の作家であることも証明している。読後、豊潤な葡萄酒を飲んだときのような「慰め」が感じられるエッセー集である。

(「静岡新聞」、1989年3月26日)

死霊を求めて 作家埴谷雄高氏と共に

 「これはなるほどひどいところだな」これは埴谷さんの声。「そういったって、ここまできて今さら引き返すって手はないでしょう」といくらかぶっきらぼうな Tさんの声がそれに続く。まったくひどい藪だ。埴谷さんたちは、わずか四、五メートルくらい前なのに、声は聞こえても姿は見えない。笹や小枝から目を防ぐことに気をつかうと、こんどは蔦が足にからみつく。背をのばすこともできず、身を丸くかがめて、両手を前につき出し、少しずつ前進である。それにこの暑さはどうだ。汗がふき出て、胸や背中を気持悪く流れ下る。こういう時にうるしにカブレルんだ、とふと思った。

 ここは、福島県相馬郡小高町である。なんの変哲もない田舎町である。今ぼくたちが苦労しいしい進んでいるのは、小高の駅から南にわずかの距離のところにある小さな山、というより丘の、その裏側にあたる山あいである。
 今しがた、まつり気分の町なかを抜けてきたぼくたちには、別世界のようなこの静けさは、奇妙な寂しさとなって襲ってくる。藪の外は、まだ夕方近くのやわらかな陽の光があたりを金色に彩っていたが、ぼくたちが進んでゆく周囲はまったく光が届かない。先導するTさんは、たしかにこれが道だと言った。なるほど、注意してみれば、足もとは周囲よりわずか踏みかためられた形跡はあるし、藪の密生のぐあいもいくらかまばらとは言える。しかし、どっちにしたって、歩きにくいことに変わりはない。
 何分ほど歩いたろうか。とつぜん「ここがそうですよ」といううれしそうなTさんの声がした。前方は前方だが、なんだか下の方から聞こえたようだ。どうも道を踏みちがえたらしい。あわてて左側の笹薮を両手でかきわけ、すかして見たら、なるほど、四メートルほど下に、わずかだが空間がひらけて、そこにホッと一息ついている二人の姿が見えた。二人の前には大きな一枚岩がある。これが目ざす般若家代々の墓らしい。
 七月初旬のある日、ぼくは久しぶりに吉祥寺にある埴谷さんのお宅を訪ねた。これはもう毎度のことだが、当の埴谷さんの家が見えはじめると、どうしたことか急に引き返したいような衝動にかられる。戦後文学における埴谷雄高の姿が大きくふくれあがってくるような感じなのだ。もう少し自分をきたえてから、などと悲壮な気持ちになる自分もおかしいが、そう考えながらも、いつの間にか門前に立ってべルを押している自分の姿はなおおかしい。
 初めて埴谷さんのお宅を訪ねたのは、作年の十一月で、ちょうど上京中の島尾敬雄さんに連れていってもらった。ぼくが、西洋文学の、それも主にカトリツク作家の読者というそれまでの潔癖な姿勢から、ふと目覚めたふうに、現代日本文学に目を転じたとき、なにかしら心惹かれる作家を何人か見つけたが、なかでも埴谷雄高の名は頭にこびりついて離れなかった。そのとき読んだのは、二、三の評論にすぎなかったが、それらが持つ一種異様なふんいきに酔ったといったらいいのか。とにかく、一行一句さえもが、極度の緊迫感にみちており、作者の凝視力のすさまじさに圧倒されたわけである。「蘚苔植物的」な日本文学の風土にも、このような硬質な文体と思想があるということは、ぼくにとって意外な喜びであった。
 その埴谷さんから、いっしょに相馬へ旅をしてもいいと聞いたとき、ぼくは一瞬うれしいのか恐ろしいのか、妙な興奮を覚えたものだ。道中どういう話をしたらよいか、まるで面接試験を受ける受験生の心境に似ていた。しかし、旅の最初から、そのような取越し苦労は無用なことに気づいた。実に親切なのだ。ぼくは大いにとまどった、とひとまず告白してあこう。
 埴谷さんの書くものは、戦後文学最大の収穫と呼び声高い未完の長篇『死霊』をはじめとして、どれもこれも難解(ことばの真の意味でのナンカイのことだが)きわまりない。たとえぼ『虚空』などと言う短編は、まさに人間疎外の標本みたいな、人をつっぱなした作品だが、これらの作者埴谷雄高と、実生活者般若豊(本名)とが、どうしても結びつかないのだ。吉本隆明氏が、この間の事情を彼一流の鋭い分析で説明していたのをどこかで読んだ記憶があるが、ぼく流の解釈をすれば、埴谷文学の、一種非人間的ともいえるすさまじい迫力は生活者般若豊の非常に人間くさい温かさに支えられてこそ、だと思うのだ。と言っても、生活者般若豊の方がより本物だというわけではない。どちらも本物のハ二ヤ・ユタカであることはもちろんである。埴谷さんのように、あきらかに弁証法的思考法をとる作家は、実人生と虚構の生とを巧妙に拮抗させているはずだからである。これは、別に実生活と作品間の均衡関係ばかりではない。こころみに評論集をとりあげてもわかることだ。
 そこには「迷路のなかの継走者」などといういかにもしゃちこばった埴谷雄高がいると思えば、「大丼広介夫人」などという人間味あふれる埴谷雄高がいるわけである。
 ところで、今度の旅だが、表向きは相馬野馬追見物ということであるが、埴谷さんにとってはそんなことより、ご先祖の墓を訪れることのほうが、旅に踏みきられた直接の動機にちがいない。般若家代々の墓といっても、それは祖父母にあたる方までのそれで、ご両親の墓は青山にあるそうだ。つまり。埴谷さん自身は、この相馬にいちども住んだことはないのである。生まれは台湾、そして中学時代からは、ずっと東京で暮されたのである。相馬を故郷とするなら、埴谷さんは、いわばハイマート・ロス(故郷喪失者)のわけだ。相馬は四人の現代作家を生んだが、おもしろいことにそれがそろいもそろってハイマート・ロスなのである。四人とは、志賀直哉(祖父にあたる人が相馬藩の家老だった)、荒正人、埴谷雄高、島尾敏雄である,しかし、故郷喪失というのは、それを意識しないかぎりはそうではないという矛盾したことばだから、その意味でいくと、志賀直哉はもっとも喪失感がうすく、島尾敏雄がいちばん濃いことになる。

 「現実の直接的反映を私が構築した世界の中へ持ちこまないことを、殆ど絶対的な原則としている」埴谷さんの作品には、もちろん相馬が直接描かれたことはない。しかし、学生時代に何回か訪れたはずだし、父祖の地として、埴谷さんの意識の中には、相馬が生き続けていたはずだ。

  だからこそ、今、こうして埴谷さんはご先祖の墓の前に立っておられるわけだ。

 周囲は薄暗いが、それだけいかにも墓地らしいふんいきがあたりをつつんでいる。幽玄といっていいのか、幽絶といっていいのか、霊魂の安息の場所として、申し分のない場所である。台座は雑草におおわれ、墓石はこけむしているが、なかなか堂々とした墓である。あたりは寂として声なく、ただぼくたちのは息だけがわずかに周囲に生気を与える。死者は、いかにもつつましく世をしりぞいて生者の世界に干渉せず、時たまこうして訪れる生者に対しては、静かに胸のうちに語りかけるのである。死者はぼくたちがかれらを見捨てたようにぼくたちを見捨てたのではなく、求めるものにはいつも対話のチャンスを与えてくれることを、そのときぼくたちはさとるのだ。

 ある浪漫派の詩人は「死者たちのいかばかり孤独なことよ」と、ぼくたち生者の心意気を示してくれたが、しかし混沌とした現代社会に疲弊しきったぼくたちに対して、案外同じことばを死者たちの方でつぶやいているのかもしれない。「いかばかり生者の孤独なことよ」と。
「死んだものはもう帰ってこない。生きてるものは生きていることしか語らない。」
 これは「永久革命者の悲哀」全編を流れる無気味なリフレインだが、ぼくたち現代人にどこか欠けているところがあるとすれば、それはただ生の側のみに目を向けて、そこにしがみつき、生のあちら側の声を聞こうともしない倣岸さにちがいない。
 ぼくたちは墓の周囲を少し鎌で払ったのち、Tさんの庭からいただいてきた花をたむけた。一瞬の沈黙。それぞれ何を念じたのだろうか。それは神のみぞ知る。つねづね埴谷さんは、ぼくは宗教に縁がない男だ、あったとしても般若教ぐらいなものだ、といくらか冗談まじりに言っておられるが、埴谷さんの一読者たるぼくの目にはそううつらないのだ。こんなことを言うと、おそらく埴谷さんは苦い顔をされるかもしれないが、埴谷さんは埴谷さんなりに神を志向しているのである。それは作品を読んでみれば歴然としている。神ということばが唐突なら、絶対者、絶対なるもの、どう言いかえてもかまわない。そんなことを言うなら、無神論者なんて存在しないではないか、それこそ我田引水もはなはだしいと反論されるかもわからない。いや、存在しないのである。有神論者を自認している人の中でもそれは理論だけで実際には無神論者がいるように、無神論者を自認している人の中に、理論的にはそうでありながら実際には有神論者がいるものだ。いやもっと正確に言うなら、根っからの(つまり理論面でも実際面でも)有神論者も無神論者もいないわけだ。人間はこれら二つの極をゆれ動く複雑な存在である。どちらかのレッテルをはって、それで安心できるほど簡単なことではないのだ。なにによらず、人問を軽々しく腑分けする悪しき合理主義からぼくたちは解放されなければならない。
 埴谷雄高が、日本におけるもっともドストエフスキイ的作家であることは、あまりに有名だが、ぼくはここに、ほんとうの意味での影響という現象を見ているのだ。ぼくたちがふつう呼びなれている影響は、多くの場合猿まねにすぎない。
 およそ、ある人の思想というものが、別のある人に影響するという場合、おそらく、それを受ける側には全実存が震憾させられるほどの激しいショックがあるはずなのだ。たとえば次のような文章がある。
「ところで、青年期に踏みこんだ私は、それから数年間、ドストエフスキイのみならず、文学作品からまったく隔離されているところの一種はげしい渦動の時代(左翼運動、獄中生活などを指すらしい)を経たが、その数年問を経たのちの私がふたたびドストエフスキイを読んだとき、私は、いってみれば、青年も壮年も老年も巧妙にひっくるめてみごとに組み台わせたところの驚くべき巨大な論理に直面した。おそらく、ドストエフスキイのうむを言わせぬ根強い影響が私の上に及ばされたのはこの時朗からといってもよいのであろうが、『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』は確かに私の魂の奥底を震撼して、その中のシガーレフ理論やキリーロフ理論や『大審問官』の章は何度読み返してもそのたびにこと新しく私の精神を熱く焼きたてるところの灼熱の鉄板と化してしまったかのごとき感があった。」(「ドストエフスキイと私」)
 今度の旅の一夜、埴谷さんは土地の同人誌の人たちに一場の話をなさったが、そのときも例の『大審問官』のことにふれた。いわば権カの、悪の権化ともいうべき大審問官へのキリストの無言の接吻の重さについてである。善と悪の均衡が、このなにげないキリストの接吻によって保たれていることを。つまりぼくが言いたいのは、ドストエフスキイに根底から震憾され、影響された埴谷さんに、このキリストとの対決は避けられない課題、おそらくは唯一の課題、にちがいないということである。
 埴谷雄高は、いまだキリストの接吻の重みについて多くを語らない。しかし、とあえて言うのだが、存在と非存在、現実と架空、光と闇、善と悪の、無限にわたる巨大なはかりの、そのバランスがとれるのは、ひとえにこの一瞬の接吻にかかっていると思うのだが。埴谷文学に以上のような緊迫した、闇に書かれた光の弁証法が成り立つとき、そこに真の意味での永久革命者埴谷雄高が登場するはずだ。
『死霊』の作家が死霊をたずねる、という思いがけない光景に立ちあったぼくは、高嶺なる埴谷文学登攀の最初の足がかりをつかんだように思ったが、墓所に眠る死霊たちとの玄妙な対話をものした作家埴谷雄高はさらに高みへと昇る小径をみつけたにちがいない。
 墓所はますます闇を濃くしてきた。おそらく、墓地の外の生者の世界にも夕闇が訪れたのであろう。ぼくたちはふたたび墓の前に黙祷してから、寡黙な般若家の死霊たちに別れをつげた。

(「あけぼの」一九六六年十一月号)

↑ PAGE TOP