富士貞房作品集

【ピカレスク自叙伝】を最初から見る(自動でタイトルまで移動します。)

ピカレスク自叙伝

  あ、ぶつかるな、と思った途端、眼の前が真暗になった。暗闇の中でだれかが叫んでいる。答えようと思ったが、どうにも言葉が出てこない。ぐんぐん地底に落ちてゆく。頭が先か足が先か分らぬが、いつも頭でっかちと言われてる俺だから、多分頭が下なんだろうと思った。それから先のことは覚えていない。
ポチャポチャ水の音がする。ははあ、河だな、カワニシかも知れない。カワニシだったら、自分の生まれた処だ。すると自分はいつの問に帰ってきたのだろう。満人の親兄弟が近くにいるのかも知れない。会ったら最初なんて言えば良いだろうと、心配になってきた。それにしてもどうしてこうあたりが暗いのだろう。夜明けかな。おや、足が動かない、手も動かない。へそのあたりに力を入れてみたが、なにかに縛られているようで、どうにも動きがとれない。あれ、すると俺はまた赤ん坊に逆もどりしたのかな。こういうことってあるか知らん。いや、あるかも知れない。だって、いつか砂場で邦ちゃんが真面目な顔で言ったではないか。あのね、人間は死ぬと、今度は動物に生まれかわるんだって。動物になるんだったら、また人間になっても不思議がないではないか。豚なんかに生まれかわるより、人間になった方が、よほどサッパリしたもんではないか。豚と言えば、どうだろう、隣の満人の家で飼っている黒豚の汚ならしいこと。人間のたれたものさえ喰うと言うではないか。                
「おや、気がついたらしいよ」
おふくろの声だな、と思うまもなく、眼の前がぱっと明るくなった。濡れタオルで眼のあたりを冷やしていたらしい。はじめにぼんやりと眼に入ったのは、おふくろのいやに大きな顔だ。虹を背にしているかのように、なんとなく神々しくさえ見える。おや、おふくろもなかなか捨てたもんではないな、こうやって見ると観音様みたいに後光がさしている。それにしても眼が馬鹿に大きいな、と思ったら、どうも涙がたまっているらしい。そのうちそれが下まつげにぶらさがり、落ちるな、と思ったら、やはり俺の左の頬に生温たかく飛び散った。なかなかいい感じである。

「ほんとにまあ、よかったよ。お父さん、勘吉が気がついたよ」
「うん」                         
これはまた気のない返事だ。察するところ、新聞かなんかを読みながらの返事らしい。立って見にくるということもしない。可愛い息子がよみがえったというのに、これはまた冷淡な。おふくろの顔の背後に、夕っ方らしい光が広がっている。それで精一杯しおらしい声で聞いてみた。 
「もう明日になったの」
「なにを言うの勘ちゃん、まだ今日なのよ」 
なんだ、がっかりさせる。もうてっきり明日になってしまったんだな、と思っていたのに。ずい分そそくさしたよみがえりではないか。
とすると、あれがあったのは、今日の朝ということになる。俺は眼をつぶって、しきりに記憶の糸をたぐりよせようとした。朝御飯の後、裏のねぎ畑で紋白蝶を追いまわしていたら、勝手口からおふくろが顔を出して俺を呼んだ。なにかくれるのかと思って飛んでいったら、おやじに今来た葉書を持って行け、と言う。よっぽど、いやーだよ、と言って逃げ出そうと思ったが、継母なのでそれでぐれているなんて思われるのも癪だから、嫌々言いつけに従うことにした。それで葉書をひったくるようにして受取ると、葦駄天走りに走りだした。          
「勘吉! 落とすんじやないよ!」               
うしろからおふくろのわめくのが聞こえたが、なーに、犬っ子じゃあるまいし、こんなもの落としてたまるか、といよいよスピードをあげた。おふくろはなにかにつけて兄の正一を引き合いに出して俺をけなすが、ただひとつだけ褒めてくれることがある。俺の走りっぷりがなかなかいいと言うのだ。へん、家のまわりをちょっと走っただけで、そんなこと分かるもんかい。小っちゃい時サラブレッドみたいでも、大きくなり、駄馬になる例だってあるのである。だが、そうは言っても、このおふくろの言葉は大いに利いたらしい。その証拠には、せいぜいいい恰好をして走ろうとしているではないか。

そんなことを考えながら役所前の広場に走りこんだら、向こうからボーイのピー公が最近買ったばかりの役所の自転車に乗って、フラフラこっちに走ってくる。奴さん練習のつもりらしい。まあ、なんて頼りない乗り方だろう。とこれはフル・スピードで走りながら考えたことである。
いくらなんでも、俺の手前で曲ってくれるものとばかり思ったのである。それがかえってヨロヨロとこちらに向かってきた。あっ、という問もない。車体のメッキが、キラキラしながら飛び込んできた、と思った瞬間、正面衝突したらしい。あとは真暗々の闇である。 と、ここまではふとんの中で思い出したこと。おもむろに眼を明けたら、正一の要領よさそうな顔と、姉の金子のドングリ眼が俺をのぞいている。ピタリと視線が合った時、二人はきまり悪そうに眼をそらしたかと思うと、申し合わせたように立ち上がって、隣の部屋に駆け込んだ。なにやら襖のかげでささやいていたが、そのうちそれがクスクス笑いになった。どういう気なんだろう、人様の難儀を笑うとは。少し腹が立ったが、なんだか奴らの気持も分かるような気がした。奴ら照れているのである。だって病気で二、三日顔を見せなかった友だちに顔を合わせてさえ、どうにも眼のやり場がないような恥ずかしい気持ちになるではないか。この間も、校長先生のところの三平がはしかで三日ほど寝こんで、それで病みあがりの青白い顔を通りで見た時に、俺だってなんて声かけようかとモジモジしたではないか。自慢でないが、生まれ落ちてからこの方、俺は病気というものにかかったことがない。だが、いつか俺も三平みたいにはしかになってみたいなと思う。憎まれ者の俺も、その時にはみんな尊敬してくれるだろう。                 
いやその必要はない、とその時俺は一大発見をした。そうだ、俺は、はしかなんてよりすごい経験をしたのだ。あのピカピカ光る新しい自転車と正面衝突したのだ。俺たちの仲間で、いったいだれが気を失ったことがあったろう。よく漫画などで、悪漢どもが正義の鉄拳に一撃のもとにやられて、ポワーンと気を失う様が画かれているが、俺は立場は逆だが同じような体験をしたのだ。三平なんか、今まで以上に俺さまに頭が上らないぞ、と思った。

三平は、どうも虫が好かない奴だ。この間だって、俺の命令にあいつだけが異議をはさみやがった。                 
「だって勘ちやん、そんなことしたら伝染病にかかってしまうよ。赤痢だよ」と抜かしやがった。もっとも、俺だってその心配は感じていたのだ。だが、これもみんなお国のためじゃないか。本物の兵隊だったら、「キサマ、上官に手向かうのか」って言われて、往復ビンタでもすまないところである。                 
俺があんなことを部下たちに命じたのは、先日憲兵隊の詰所から遊びに来た金米糖のおじさんが話していたことからヒントを得たのだ。なんでもある隊長さんは、ちょっとするとすぐ、「キサマ、靴の底をなめろ!」とどなるそうだ。志気がなまっている、というわけなのだ。
そんな話があったものだから、翌日学校裏で演習をやっていたとき、ふと、あの命令を出してやろうかな、という気になったのである。ところが、三平の奴が、泣きそうな顔になって抗議したのだ。奴のおかげで、本当に片足をあげて舌を靴の方まで持って行きそうにしていた者までが、途中で止めてしまった。うら成り瓢箪みたいな面しておふくろのあとばっかり追いまわしている三平の奴、とんでもない時に上官に楯つきやがった。
まあ過ぎ去ったことはいい。だがあいつ、ほうたいをおデコに巻いた俺の顔を見て、どんなに驚くだろうな。今度は言うことを聞いて、靴の底をなめるかも知れない。                
いつの間にか、また眠りに落ちたらしい。次に眼を開けた時には、朝の光が射すように飛び込んできた。いや、正確に言うと、一度夜中に起こされて、無理やりにおかゆのようなものを食わされたらしい。なんだかそんな気がする。

近くには匪賊が出没する物騒な町だ。だから、時々、ここよりもっと大きな町から兵隊さんがやってきて、トウバツに出かける。トウバツに出かける前の夜などは、宿泊所にした小学校の講堂で、ドンチャン騒ぎをやらかしているが、トウバツから帰って来た時などは、怪我して担架で運ばれてくる者や、他人の肩などにつかまってビッコひきひきやってくる者や、散々なていたらくである。なかには、怪我もしていないのに、ワンワン男泣きに泣いてくる奴もいる。

俺だって彼らに同情しないわけではないが、出かける前にはツーツーレロレロで、帰ってきてワンワンでは、どうにも恰好がとれないのではないか。俺なら、出かける時にはひっそり出かけて、帰ってきた時酒盛でもなんでもやろうと思っているが、いかがなもんだろう。 
時々、山のてっぺんあたりから白い煙が上ることがあるが、聞くところによると、あれは匪賊のあげる合図のノロシだそうだ。そんな時、俺はゾクゾクッとする。なに怖気ついたのかって。とんでもない、武者震いである。一度などはあまり興奮しちまって、家に飛んで帰り、おやじのしこみ杖を持ち出したら、あとからおふくろが引きつけをおこしたような真っ青な顔で追いかけてきたので、広場の真中にそいつをおっぽり出して、夕方まで家に帰らなかったことがある。頭をこづかれる位ではすまないだろうと覚悟していたら、今度からあれにさわるんではありませんよ、と言われただけだったので、かえって気抜けしたものだ。今から考えるに、あのことはよっぽどおふくろにとってショックだったらしい。           
ところで、例のピー公は俺の顔を見ると、こそこそ逃げかくれする仕末なので、初めのうちはなにかしっぺ返しをしてやろうと思っていた俺も、奴のことなど問題にしないことに決めた。       
季節はもう夏に向かい始めていた。ある朝、例の通り学校裏の演習場に行ってみたら、まだ仲間は誰も来ていない。しょうがないので、サーベル代りの棒っ切れで窓下の壁をパカパカ叩きながら歩いて行ったら、突然ガラリと窓があいて、
「うるさい!」                        
と怒鳴られた。見上げるとおふくろが鼻の穴をふくらませて睨んでいる。あっいけねえ、と思ったとたん、 自分でも思ってもいなかった言葉がひとりでに飛び出した。    
「かあちゃん、授業参観していいかい?」            
おふくろはなんて返事していいか、しばらく口をあけたままだったが、眼のとどかないところで悪さをされるより、眼のとどくところで監視した方が得策と考えたのか、ああいいよ、と思いがけなくゆるしてくれた。                      

急いで表にまわって教室横のドアから中に入ったら、ちょうど工作の時間らしい。皆めいめい机の上に赤や青の棒や、色とりどりの千代紙などを並べてなにやら作っている。見るところ、どうも風車作りらしい。俺は、一番うしろの空いた席に坐った。風呂屋の六郎が青っ洟をたらしただらしない面相で振り返った。校長先生ところの恵子ちゃん、これは
三平と違って利発な子だから好感が持てる、がすずしい眼で笑ってみせた。生徒と言っても、一年から三年までが、雑然と八、九人ほどいるだけである。高学年は隣りの教室である。おふくろが俺の分として材料を持ってきて、渡しぎわに、
「静かに作るんですよ」
と念を押した。分ってらい、いくら俺だって物のけじめだけは心得ているつもりだ。
左隣りに姉の金子が例のドングリ眼で、一心不乱だ。かあちやん先生にならうなんて、きまりが悪いことだろうに、と思ったが、でもこれも一種の慣れの問題だろう、とも思った。
隣りを見たり前を見たりでなんとなくやっていくうちに、どうやら風車らしきものが出来あがった。赤い羽根に赤いビーズ玉ではあまりパッとしないので、姉ちやんの青いビーズ玉ととりかえてもらう。まだだれもでき上った奴はいないらしい。所在無さに窓の外を見ていたら、おふくろが近づいてきて、
「もうできたのかい」
と、おもしろくもない、といった調子で聞いた。見れば分かりそうなもの、と返事もしないで黙っていた。そのうちみんなもそろそろ出来上ったのか、がやがや教室が騒がしくなってきた。俺も、自分の作品をただ黙って見ているって法はないので、片手にもって振り回して見たが、ビーズのかげんかどうも回りがよろしくない。それでそいつを右手に持って席を立ち、机の間を少し走ってみた。少し回った。今度は飛行機のプロペラよろしく、そいつを口にくわえて、おふくろが見ていない瞬間を見はからって駆け出した。ところが運の悪いことには、だれかのカバンに足をとられて、前のめりにぶったおれてしまった。反射的に両手を前に出していたが、それでも棒先がゲボッとばかりに喉をついた。痛いなんてものではない。泣くことさえ忘れてうずくまった。おふくろが血相変えてとんできた。口の中に焼き火箸を突込まれたようだ。ゲホゲホやってつばを出したら、それがみんな血だった。                    

と、いかにも冷静に観察したようだが、金子の話によると、その時俺は火のついたように泣きわめいたそうだ。見方によればそうも見えたろうと思う。とにかく、おかげで一週間ほどお医者さん通いをしなければならなかったことだけは事実である。
おデコの真中には傷をこさえるし、喉をついてはシャガレ声になるし、このところどうもツイていない感じだったが、仲間うちの株はおかげで前よりも上がった。大人の言葉で言うなら、俺の声なぞさしずめドスの利いた声とでも言うのであろう。皆んなの俺を見る眼つきさえ変わってきたように思う。兄の正一も、今まではよく、おやつを食ってる俺の側に来て、                     
「ねぇいいだろう、ちょっぴり。また後で返すからさ」          
などと言って、少し失敬して行くことがあったが、この頃では、      
「いやだよ」                           
とにらんでやれば、すごすごと引下るようになった。           
女の子なども、特にソーム課長のところの早苗ちゃんなどは、用もないのに俺のまわりをウロウロするようになった。俺は知らんぷりをすることにしている。女の子なんてやさしくするとすぐ増長するから厄介である。そこへ行くと、裏のおばさんは大人だからそんな心配はいらぬ。
おばさんというのは、正田さんのおばさんである。おじさんの方は、いつも出張かなんかで、家にいることはめったにない。おばさんは美人だ。少なくとも俺のおふくろより数倍美人である。いつもサッパリした着物をきていて、白い前掛姿など、子供の俺が見てもいいなあと思う。  
でもおばさんの飼っているゴロウという犬は嫌いだ。以前、俺の大事にしていた烏のカンコを、あっという間に喰い殺してしまったからだ。足が悪くて飛べないカンコを、まったくひどい殺し方をしたものだ。
おばさんの家に遊びに行く度に、このゴロウの顔も見なければならないわけだが、この頃では俺も少々物分りが良くなったのか、以前のようにゴロウをひそかに睨み付けることもしなくなった。なんせ相手は畜生なんだし、それに人間同士の関係であっても、なにからなにまでキレイごとばかりではないからである。どこかに血腥いものを隠し持っているものではないのかな。

ところで、このおばさん俺の災難にいたく同情してくれた。おデコの傷口をオマジナイ代りに嘗めてくれた上に、喉の薬だと言ってドロップまでくれた。
ドロップといえば、先日こんなことがあった。回覧板がきてお菓子の配給があるという。それでおふくろについて貰いに行ったら、驚くなかれ、大きな缶に半分ぐらいのドロップである。赤や黄や紫や、それにハッカの入った白いものまで、罐の中でコロコロしている。いやー嬉しかったねえ。おふくろの後になり先になりして、踊るようにして帰った。そしたら、三平ところのおばさんが息せき切って追いかけてきて、今の配給、分量を間違えたそうだから、一度返してくれ、というのだ。おふくろは恥ずかしいのか真赤になったが、俺は怒りと無念さとで真っ青になった。                
結局、ドロップは最初の四分の一ほどに減って帰ってきた。あの時ほど恨めしいと思ったことはない。人間、食い物の恨みは恐ろしいと言うが、俺はこの時、心の中で強く誓ったね、いったん与えたものは、決して取り返すな、とね。                近ごろどうもおやじに元気がない。顔色もさえない。役所の方にも出たり出なかったりだったのが、三日前から寝こんでしまった。どこから買入れたのか、今まで見たこともないベッドの上に寝たままである。ガタガタ部屋の中を歩きまわる俺を、  
「静かに歩きなさい、お父さんが寝てるでしょ!」        
と、おふくろが叱りつける時でも、
「いいさいいさ、子供は元気の方がいい」
などと言う。どうも様子が変だ。                   
ある晩おやじが寝てしまってから、おふくろは俺たち三人を茶の間に坐らせて、真剣な顔をして、こう宣言した。
「ねぇ、お前たちももう物の分かる年頃なんだからはっきり言っておきます。お父さんはケッカクなんですよ。お医者さまは、たいへん悪いって言ってます。お父さんは、なによりも静かに寝ていなきゃいけないの、だから、お前たちも家の中では、騒いだり走りまわったりしてはいけません。分かりましたね、分かったね勘吉」

なんで俺の名前をことさら引き合いに出すのか、そのところがちょっぴり不満だったが、なんとなく事が重大らしいので、その時はコックリうなずいた。 
ケッカクという病気がどんなものか俺は良くは知らないが、恵子ちゃんの話によると、これにかかるとまず助からないそうだ。恵子ちゃんの親戚の人も去年これで亡くなったそうだ。恵子ちゃんはそのことを、鉄棒遊びをしていた時教えてくれた。俺は、恵子ちゃんの言うことだから本当なんだろうと思った。

毎日毎日暑い日が続いた。ある日、線路の側の原っぱで三平たちとバッタ取りをしてから家に帰ってみたら、玄関の石段のところにバケツが置いてある。覗いて見たら、一匹の亀がいた。こいつはいいや、と思って、手を突込もうとしたら、
「勘吉、いけません!」
と、ちょうど出てきたおふくろに呶鳴られた。
「どうして、これ亀だろう、飼うの」
「亀じゃありません、スッポンです!」
「スッポンって亀のこと?」
「スッポンはスッポンです!  喰いつかれたら、死んでも離さないんですよ!」
「じゃ,これどうするの」 
「お父さんのための血をとるの」
血と聞いて俺はゾクゾクッとした。武者ぶるいではない、恐くなったのである。血そのものが恐いのではない。人間の生の苛酷さに慄然としたのである。うまく言葉で言い表わすことはできないが、つまり関係の血腥さに恐怖を感じたのである。スッポンの血によって、おやじの生命がそれだけ延びる。生と死の奇妙な均衡。いやに理屈っぼくて頭が痛くなるほどだが、その時そんなような感じをバクゼンと考えていた。するとおふくろが  
「勘ちゃん、小田切さんを呼んできてちょうだい。お母さんひとりではとても殺せないから」
と言った。それはそうだろう、ご婦人には無理だ、と俺も思ったから、さっそく小田切さんを呼びに走った。             

小田切さんというのは、東京帝大出身の学士さんで、満州事情研究のためと称して、単身ぶらりとこの町にやってきた青年である。別にこれと言った仕事もせず、よく俺たちの仲間になって他愛なく遊んだり、裸山をほっつき歩いたりする高等遊民といったところである。どういうわけかおやじと気が合うらしい。
小田切さんは、おふくろの持ってきたマナイタの上にスッポンを裏返しにのせた。甲羅をひょいとつかむと、それを投げつけるようにマナイタの上にひっくり返したのである。スッポンは足をバタバタさせ、首を伸ばした。そこをすかさず、小田切さんは母の手渡した出刃包丁を、スッポンの首に突き立てた。赤い血がプッと吹き出すのを、今度は甲羅をとって側にあったコップに逆さにした。足はまだ動いているが、首すじからドス黒い血が滴り落ちた。
最後の一滴がコップの中にポトンと落ちるまで、始めてから何分たったろう。俺はまたたきもせず、じっとこの惨劇を見ていた。なんだが、口の中がスッパイような変な感じがした。
「どうだ勘ちゃん、すごいだろう」
と小田切さんは言う。彼も少し興奮しているようだ。おふくろは、と見ると、先ほどから柱につかまって、貧血をおこしそうな様子だ。コップの中の血は、午後の強い陽光の下で、気味悪いほどの赤さだった。

おやじは日増しに病状が悪化してゆくらしい。おふくろも勤めを休んで、ほとんどつきっきりの看病である。前と比べると、おふくろには、落着いたところがなくなった。やけに忙しそうに動きまわっていたかと思うと、気の抜けたようにボンヤリしている。かえっておやじの方が、泰然自若として見える。そして、家中の空気が、おやじのこの暗いエアーポケットを中心に渦巻いているように感じられる。家の中にいると、自然と気持がその渦の中心に傾斜して行きそうなので、俺は前よりひんぱんに外に出たがった。しかし一歩外に出たとたんに、なんだか得体の知れぬ不安に脅やかされるのだ。

空が、つき抜けるような青である。日差しは相変らず肌に暑かったが、しかし汗がじっとりといつまでも体にまとわりつくというようなことがなくなった。時々さわやかな初秋の風が木の葉をそよがせた。城内から外に出ると、秋の気配がさらに濃厚である。コウリャン畑が、黄金色の海のように地平線の彼方まで波立っていた。風が芳しい匂いを運んでいる。                                
城壁の外の世界は、中の世界とは異質のように思われた。なにか重さというものを感じさせられる。自分たちには動かすことのできぬままならぬ世界がそこにはあった。満人たちの顔つきさえ変わって見える。
その日、俺は邦ちゃんと三平を従えて、町から少し離れたところを走っている鉄道線路に出かけた。しかし今日は、汽車を見るのが目的ではなく、もっと面白いことを考えていた。それは、線路の上に釘を置いて、それを汽車に轢かせるのである。小さな刀の刃が一瞬のうちに出来上がるというのである。そのことを、俺は正一たちの話から知った。
三平はいつものように消極的だったが、邦ちゃんはやってみようと言った。俺は大工道具の入った箱から、一番長い釘を三本持ち出した。実はもっとたくさん持って行きたかったが、こういうものは少なければ少ないほどネウチがあるんだ、と思ったので、三本だけにした。
原っぱを横切る時、足元から次々とバッタが翅を光らせて飛び立った。自分自身の翅で飛ぶのか、それとも風に吹き飛ばされるのか分からぬほど、無数のバッタが風に舞った。俺たちは奥奮していたが、一言も口をきかなかった。               
土手にのぼって、線路に手を触れてみると、ドキッとするほどの熱さである。正直な話、俺は恐くなった。たしかに、俺一人だったらやめて帰ったろうと思う。しかし、部下が二人も側にいる。俺以上にドキドキしているらしい。つらいところだが、こういう時やはり上官は威厳を示さなくてはなるまい。
「勘ちゃん、汽車ひっくりかえらないかい」
と三平がふるえ声で聞く。

「まさか、汽車はそんなにトンマじゃないよ」
と俺は答えたものの、なんだか自分も確信が持てなかった。正一たちが実験済み、というものの、まさか、ということもある。だが、ここまできて、今さら止めるわけにもいかないではないか。
俺は三本の釘を、一直線に並べた。なんとなく白い三匹の魚のように見える。轢かれたら、中から赤い腸がビシャッと出てくるように思われる。
黒光りする二本の線が、どこまでも真直ぐに延びている。この線路に沿って歩いて行けば、まだ見たこともない大きな町に出られ、さらに歩いて行けば、海まで出るんだ、と思った。熱いのを我慢して、耳を近づけてみたら、ゴーッというような音がする。邦ちやんも三平も、俺の真似をした。そのゴーッという音の中に、人間の声や、工場の機械の音や、自動車の警笛や、サイレンの音や、そして波の音までが聞こえるような気がした。大地と蒼空と、そしてその中に融けこんで行くような二本の線をそうして見ていると、気の遠くなるような感じだ。 
突然、その線路の上に人影が湧くように現われた。遠くだが、白い半袖のシャツと半ズボン姿の男である。それが見るみるうちに大きくなったと思うと、
「コラー、そこの子供!  汽車が来るぞ!」
と叫んだ。俺たちはすっかりホケたようになっていたが、この声を聞いて急に現実にもどされた。心臓から一時に血が体中にバラまかれたように感じた。恐怖が体中に走った。
真先に邦ちゃんが逃げだした。いつもボンヤリしているようだが、急場になると不思議に奴は敏捷である。続いて俺も土手を駆け下りたが、三平はまだ土手の上でマゴマゴしている。         

「三平! 早くこいよ!」
と呶鳴りつけると、                        
「勘ちゃん待ってーー」                     
と、もうほとんど泣き声である。                  
バッタが飛ぶ、草がなびく、雲が走る、大地がゆれる。俺たちは、一目散に原っぱを走ってゆく。後ろを振り返る余裕などない。あの誰だか知らぬ大人も恐かったし、転覆するかも知れぬ汽車も恐かった。
その晩、俺はおふくろからコッピドク叱られた。三平ところのおばさんが、早速文句を言いにきたのである。三平の卑法さを、俺は心から憎んだ。
おふくろの叱り方は、これまでと違って異様に激しかった。妙にしつこいものを感じた。日ごろの気苦労が、俺のことにからんで、出てきたのだと思った。その時、奥の間に寝ていた父が、       
「和代、いいかげんにしないか!」                 
と叫んだ。茶の間にいた四人は、ギクッとした。おやじがあんな声を出すのは、病気になって以来のことだからである。絞り出すような、吐き出すような、妙に鋭い叫びであった。 
おやじが死んだのは、それから間もなくしてであった。
夕方だった。ひんやりとした風が、白いレースのカーテンを揺すっている。お医者さんの太い指が、おやじのまぶたを静かに閉じた。おやじは、眠っているようであった。それなのに、死んだのであった。
臨終のあの静けさとは対照的な、あわただしい幾日かがそれに続いた。坊さんの挙げる読経の声、線香の匂い、参列者たちの一様な黒い着物、同じような挨拶の繰り返し。
おふくろは始終気を張りつめていたようだ。人前では涙も見せなかった。一度泣き出せば、すべてがガタガタと崩れてしまう、そう思ったに違いない。俺も、この間中、至極神妙にかしこまっていた。

おふくろは、しばらくしてからまた学校に勤めはじめた。でも俺は、おふくろが家に居る時は、努めておふくろの側に居ることにした。このごろでは、三平たちともあまり遊ばなくなった。急に奴等が子供っぽく見えてきたのである。そして、自分の中で何かが変わったように感じた。それが何であるかはっきりとは分からぬまでも、なんとなく気になるもの、もどかしいものが心の中にできたように思えた。
ある時、俺はおふくろの側で講談社の絵本を腹ばいになって見ていた。おふくろは繕い物をしている。兄きと姉きは、昼食の後、どこかに遊びに出かけた。日曜の午後である。外は、頬っぺたがヒリヒリするような風が吹いているが、部屋の中には、強い陽の光が届いていた。ハエがにぶい羽音をたてて飛び回ったり、畳の上を忙しそうに歩いている。電線に当たる風が、ヒョウヒョウとうなるのが聞こえる。
畳の上に、今度は仰むけになってみた。窓から見える空は冷たそうな青で、底知れない気持ちにさせられる。空はどこまで広がっているのか。空の終りには、続いて何があるのか。おふくろは、おやじは天国に行った、と言うが、天国はあの空の向こうにあるものなのか。死んだ人の魂は、みんなあの空の中に吸込まれて行くものなんだろうか。
俺は急に心細くなって、おふくろの方を見た。なんだかおふくろも、この深い空の中にすいこまれて行ってしまうような気がしたからである。
「ねえ、かあちゃん、死んだ人が天国に行くって本当?」
「ああ、本当だよ」
「天国って、どこにあるの、あの空のずっと上の方?」
「そう、空のずっと向こう」
「風が吹いて寒いだろうな」
今度は、おふくろは何とも答えず、黙って針を動かしている。

いや、天国には風なんて吹いていないかも知れない。きっと暖かで楽しい処に違いない。そう思ってみたが、なんとなく悲しい気持で胸がいっぱいだ。こんな底知れない気持は、俺には初めての経験だった。すぐ側に坐っているおふくろも、なんだか物すごく頼りないものに思えてきたのは、なぜだったろう。戸外で、相変わらず、風がヒョウヒョウと泣いていた。

春が来ると共に、俺はまた活動を開始した。と言っても、冬の間中じっと家の中に閉じこもっていたわけではない。邦ちゃんや三平たちとも、またつき合うようにした。なにせ、この小さい町では、友達の選り好みをするわけにもいかない。年上の奴等とつき合ってもいいが、いやに先輩づらするのが気にさわる。それに、俺は形は小さいし、顔つきもそれ相応の子供なんだから、あまり出しゃばった真似もできない。そこが辛いところである。 冬の問の事件らしきものと言えば、一度、兄きのために大立ち回りをやったことだ。ある日の夕方、兄きが泣きベソをかいて帰ってきた。そして、風呂屋の吾平になぐられた、とおふくろに告げるのである。このようにすぐおふくろに報告に及ぶ、というのは、兄きのいいところでもあるが、俺から見れば、なんと意気地のない、というところである。俺だったら、そんな場合、絶対におふくろにかくすところだ。負け戦の場合なら、なおさらだ。 
吾平というのは六郎の兄きで、図体ばかり大きくて、なんの取柄もない奴だ。ただ、奴の自慢は、風呂の中で長時間我慢できる位のものだ。当たり前じゃないか、あいつは生まれた時から風呂の側で暮らしているんだ。
ある時、俺たちはヨーイドンで一せいに風呂の中に飛び込み、奴に挑戦したことがある。俺は生まれつき風呂という奴が嫌いだから、真先に湯から出た。続いて挑戦者たちが次々と下りたが、奴はいっかな出ようとはしない。そのうち顔が真赤になる、歯を食いしばる。見ている俺の方も、心臓が早鐘のように打ちはじめる。

ようやく吾平は風呂から上がった。いや、上がったなんてものではない、はい上がったのである。そしてタイルの上にペタンと坐ったと思ったら、そのままバッタリひっくり返ってしまった。奴はこんな馬鹿らしいことで、わずかでも存在意義を認められたいのである。 
兄きが、この吾平になぐられたのである。弟の俺がこのまま黙ってるという法はない。で、翌日俺は、奴の帰りを広場で待ち伏せた。近くの家の煙突からは、夕餉の仕度の煙が火の粉を混じえながら、暗くなりかけた空に吹き上がっては、また横ざまに流れてゆく。俺はガタガタふるえながら、奴の近づいてくるのを待っていた。ふるえていたのは、風が冷たかったからだ。               
奴は俺の姿を見た時、ドキッとしたように一瞬立ち止まった。だがすぐ、肩をそびやかすようにして近づいてくる。今にも正面衝突しそうになった時、俺はいきなり奴の向う脛をけり上げた。イテッ、と言ってうずくまるところを、ゲンコで鼻柱をぶんなぐってやった。期待通りに鼻血が出たかどうかは分からない。なぜなら、俺はすぐさま走って家に帰ったからである。                 
家に帰ってからも、おふくろにも兄きにもそのことは一言も告げなかった。吾平のおふくろが呶鳴りこんで来はしないかと、そればかりが心配だったが、それは俺の取越苦労だった。たとえ吾平が家に帰って俺のことを言いつけたとしても、まさか年下の俺になぐられたからと言って、文句を言いにくるのもおかしな話だと思ったのであろう。
その後も、なんということもなく過ぎた。仲間を集めて仇返しをしようなどという才覚は吾平には無いらしい。大体、子供なんていうものはそういうものである。たとえば喧嘩にしたって、本気でなぐり合うなんてことは、まあ普通の子供だったらしないだろう。エイエイなどと、頼りないかけ声でカラ元気をつけながら、相手を撫でる程度である。効果的に急所をねらうなどということは、頭に浮かびもしない。だが実は、俺が吾平に対してとった戦法は、小田切さんから習ったやつである。あれだと、たいていの相手はドキモを抜かれる。

春は、ポクポクという小馬の蹄の音に似ている。そして、このポクポクという音に合わせて、そこいら中に花が咲くように思えた。風も今までとは違って、ゆっくりと気ままに吹いているようだ。小さな草花や、出てきたばかりの木の芽をくすぐったり、からかったりしながら吹いているように思えた。
広場を中心に町は広がっているが、その町も、ほどよい所で城壁によって閉じられている。そしてこの城壁の所々に、望楼が、ちょうど節をつけるように嵌めこまれている。望楼の内部はうす暗く、カビっぽいにおいがし、なぜか秘密を隠し持っているような魅力があった。俺はある日、広場からいちばん近く、校長先生の家のすぐ近く、の望楼で邦ちゃんたちと参謀会議を開いていた。そこには、古びた使いものにならない鉄砲や鉄カブトなどが片隅に積み重ねられてあり、雰囲気がわりと出る所なのだ。
敵はわが軍を包囲し、鉄道を切断した。友軍に伝令を出さなければ、わが軍は全滅なのだ。
邦ちゃんが伝令を志願したが、先日も彼だったので、俺はこの際是非三平が出るべきだと主張した。ところが、三平はどうしてもウンと言わない。友軍のいる地点があまりに遠いとダダをこねるのだ。俺はこんな腑甲斐ない部下を持ったことを、今さらのように後悔したが、兵員払底で、持ち駒は奴しかいないのである。それで俺は、最大の譲歩をした。友軍の現在位置を、町はずれの別の望楼から、今度は役所に変更したのだ。しかし、その代わり、ボーイのピー公から、彼に会ったという証明になるものを何か持ってくることを条件にした。これだと、途中でゴマ化して戻ってくることができないからである。
三平が戻ってくるまで、俺たちは最悪の場合を考えて、敵陣に切り込む準備をした。残念なことに、そこには突撃用の刀がなかったので、板っぱしをなわで鉄砲の先にしばりつけた。          
三平が駆け足で戻ってきた。何も持って帰らない。
「やい三平、お前ピー公に会ったのか?」
「あったよ、あのね、たいへんなことがあるんだって。今ね、ダットさんが町に着くって。もう見えるころなんだって」
「ダットさんてなに?」と、俺とと邦ちゃんが同時に聞いた。聞いたこともない名前だからだ。   
「分かんない。でもね、ソーム課長さんがつれてくるんだって」
俺たちはなんのことか分からなかったが、ともかく望楼に上って、様子を見ることにした。鉄の階段を上って見張り場所から町の外を眺めてみた。一望の春の野である。その中を白茶けた一本道が走っている。しばらく見ていると、遠くの方に砂塵が上がったと見るや、それがだんだんこちらに近づいてくる。              
「あれ! あれは町のトラックと違うみたい、新しいみたい!」
と邦ちゃんが叫ぶ。なるほど、町に唯一のオンボロトラックとは違うようだ。すると、ダットさんという人は、あの車に乗ってやってくるんだな。総務課長さんがわざわざ迎えに行ったんだから、だいぶ偉い人なんだろう。どこかの町の町長さんかな。
とうとう車は町の入口に当たるいちばん大きい門の所まで来た。俺たちは望楼から急いで降りて、広場の方に走った。ちょうど俺たちが広場に走りこんだ時、車から総務課長さんが降りてくるところである。ピー公や、役所の人たちが、車をとり囲んだ。俺たちも近づいて、車の中をのぞき込んだがおかしなことには誰もいない。あれ、どこかで降してきたのかな。俺はピー公の袖をひっぱって聞いてみた。        
「ダツトさんどこにいるの?」                 
「ここ、いる」                        
「どこに?」
「勘ちゃん、前、いる」
「いないよ、だれも乗ってないじゃない」
「勘ちゃん、何言うある、ダットサン、この車の名前ある」
いや、まいったね、ダットさんというのは、車の名前だったのだ。妙ちきりんな名前だと思ったら、なるほど、この車の名前なら不思議はない。車は、鼻ぴしゃのチンチクリンの車だ。ピカピカしているが、格好の悪いったらありゃしない。


四月になったら、邦ちゃんが小学一年生になった。奴は気のいい人間だから、一年生になったからといって、急に俺を見下すようなことはなかったが、なんとなくしこりのようなものが出来たことは事実だ。ところで俺がいつも不思議に思うのは、人間なぜ学校に行くのか、ということである。学校に行ったって、別にどうっていうこともないではないか。いろんな新しいことを習うというが、そんなものは別に学校で習わなくったって、自分でいくらでも勉強することができるのではないかな。人間生きてゆく上には、自分で考え、自分でやってみることが大切なのに、学校では案外そういうことが等閑に付せられているような気がしてならない。たとえば、兄きなどは、その悪しき実例だ。「校長先生がそう言ったから」、「本にそう書いているから」などと、すぐ他人様の定規でものを判断する。いったい、自分はどこに行ったのだ?      
しかし、俺にはまだ一年の猶予がある。なんとか学校に行かぬ算段を考えるには、充分な時間だろう。                
邦ちやんが学校に上がったことで、俺がいちばん困ったのは、今度はあの三平と二人で遊ばなければならなくなったことだ。同い年の子なら、女の子がやはり三人ほどいるが、奴らとはどうも遊ぶ気がしない。
初めのうちは、我慢して三平と遊んでいたが、そのうち奴の相手をしていることが、たいへんな苦痛になってきた。奴の話を真面目に聞いていた日には、こちらまでが昼行燈になってしまいそうなのだ。それで、奴をよくスッポカシてやった。
ある日も、奴とカクレンボをやったが、奴が鬼になった時、俺はこれ幸いとばかり奴をほったらかして、正田のおばさんの家に遊びに行った。後から三平が、どんな顔をして俺を捜しまわるか、と考えると、少し残酷な気もしたが、日ごろのウップンを晴らせるという痛快さも感じた。
俺がたずねた時、おばさんは玄関脇の小部屋の真中に、ひっそりと坐っていた。

「おばさん、ゴロウどこ行ったの」
これは、わが輩の外交辞令である。
「えっ、ああゴロウね、さあどこだろうね」
と、いつもと違ってどうも活気がない。
俺は玄関口に上りこんで、おばさんの顔をぬすみ見たが、なんだか眼のまわりが張れぼったい。あれ、泣いていたのかな。
「勘ちゃんはいいわね、いいお父様があって」
「えっ?」
俺は一瞬キョトンとして、おばさんの顔を見つめた。おばさんは、いつもきれいに薄化粧をしている。おふくろには勤めがあるからそのひまがないかも知れないが、たまにはこのおばさんのようにきれいにしてくれないかな、とは俺のいつも考えていることである。
おばさんは、俺の顔を大きな眼で見返して、
「勘ちゃんのお父さんは死んでしまったけど、いい人だったでしょう? お母さんに苦労かけなかったでしょう?」
俺はなんて返事していいのか分からず、ぼんやり表の方を見ていた。やわらかい陽の光の中で、ねぎの列が風にそよいでいる。二匹の蝶がその上を追いつ追われつしている。
おばさんはその後言葉を続けない。俺はなんとなく寂しい、泣きたいような気持になった。そしてその寂しさが、おばさんの気持に沿った寂しさであることも感じた。
俺はその日一日、午前中の気持ちが晴れないままであった。三平のこともあのままだった。忘れたわけではないが、それよりも重大なことで胸が一杯だったのである。重大なこと? 
夕方、暮れゆくあたりの景色を、茶の間の窓越しから見ていた時、俺は突然おばさんに花を持っていってやろうと思った。おばさんは花が好きなのだ。 
俺は庭に出て、そこら中にある花を片っ端から抜いた。茎のところを折ればいいのは分かっているが、どうもあの青くさい汁が手につくのが嫌いなのだ。あの臭いをかぐと、なにもしたくなくなるような、変な気分にさせられる。                 
十本以上も抜いたろうか。俺はそいつを束にすると、ワクワクするような気持ちで、裏のおばさんの家に持って行った。電燈がついていて、おばさんは台所に居た。ゴロウが玄関で尻尾を振った。      

「おばさん、おばさん」
と声をかけたら、
「なーに」
と言って、おばさんが出てきた。
「これ」
俺は精一杯自然を装って花束をさし出した。
「まあ、これどうしたの?」
「ううん、これ、おばさんにあげる」
「まあ、どうもありがとう、でも、どうしてかしら」
「ううん、なんでもない、ただ、おばさんにあげるの」
これだけ言うと、俺は逃げるようにして帰ってきた。
誰も見ていないと思っていたが、どうやら金子が見ていたらしい。家に帰る早々、俺はおふくろにつかまえられ、茶の間の真中に坐らされた。正一と金子は、いわくありげな眼つきで、遠まきに俺とおふくろの方をうかがっている。
「勘吉、お前、お庭の花、どうしたの、ええっ!」
俺は下を向いて黙っていた。おふくろがなぜこれほどまで事を荒立てるのか、一寸分からなかったのだ。確かに黙って花を抜いたことは悪い。しかし、俺にはなぜか崇高な、立派なことをしている、という自信のようなものがあったはずだ。おばさんの悲しみを、なぐさめてやれると思ったのだ。                   
「まあ、お前って子は、どうしてこうひねくれてるんだろうね。死んだお父さんに申し訳ないとは思わないのかい、えっ」       
おやじがベッドの上で、鼻や耳に綿をつめられて横たわっている姿が突然浮かんだ。あれはなんのためだったのかな。そして、薄暗い庭の、花を抜かれたあとの黒い土の隆起も思い起こされた。
「勘吉、なんとか返事なさい!」
おふくろのカン高い声が、部屋中に響きわたった。どうしておふくろは、俺にこう邪険なんだろう。どうして、どうして?

明るい部屋の中で、おばさんが一人夕餉の食卓に向かっている。真っ白い前掛けが、サラサラと音を立てる。そんな情景が一瞬頭をよぎった。そうだ、おふくろは俺の本当のおふくろではなく、俺は満人の子なんだ、橋の下、黒い河が流れる。ポチャポチャ、水が岸を打つ。そのうち、畳の目が、変にボヤけてきた。鼻のあたりがムズがゆくなってきた。ポトリと最初の涙が 畳の上に落ちた。こんなに簡単に涙が出るはずがない、と思ったが、次から次へと涙が目にたまってくる。急に胸かいっぱいになった。胸と腹のあたりが、ケイレンを起こしたように波打つ。
「かあちゃんは、俺の本当のかあちゃんじゃないんだろう、だから俺をいじめるんだろう!」                      
俺は、とうとう思いつめてきた決定的な言葉を叫んだ。言ってしまうと、堰を切ったように泣き出した。               
「まあ、この子は!」                       
おふくろは、やにわに俺の右腕を取ると、ぐいぐいと奥の間に引張って行く。両足を畳にふん張って、こらえようとするが、おふくろのすごい力にはかなわない。       
「さあ、坐んなさい!」                      
見ると、おやじの仏壇の前である。なんのことかさっぱり分からず、おふくろの顔を見上げたら、おふくろも泣いている。        
「いいかい勘ちゃん、勘ちゃんはね、正真正銘お母さんの子供なんだよ、ここにいるお父さんがお前の本当のお父さんなんだよ」     
俺はその時、今までおやじのことは疑って来なかったことに気がついた。なぜだろう、継父というのは、すると無いわけかな?
その時、おふくろはついと立ち上がったと思うと、仏壇横の茶ダンスの一番上の引出しを開け、そこから何やら小さい箱を取り出した。            
「勘ちゃん、これを見なさい、これはね、勘ちゃんが生まれた時のへその緒なんだよ、これでね、お前とお母さんはつながってたんだよ」
へその緒! へえ、へその緒ねー、俺は事が妙なふうに展開してきたので、泣くのをすっかり忘れてしまった。おふくろは、その小箱を俺に手渡して、
「さあ、開けてごらん!」と言う。
言われるままに開けてみると、妙な黒いものが綿にくるまっている。カエルの干乾しになったやつみたいである。
「これがへソのオ?」 
「そうだよ、間違いなくこれがお前のへソの緒なんだよ。ね、ここにちゃんとお前の生まれた日が書いてあるでしょ」
おふくろも、いつの間にかしかることを忘れている。泣き笑いの顔だ。俺は、今までの疑惑が一ペんに晴れて、無性に嬉しくなってきた。おふくろは、俺の本当のおふくろだ。 だが考えてみると、おふくろが継母だなんて、今まで一度も本気に疑ってみたことが無いような気がする。子供に本当の疑いなんてないのではないかな。
俺は、この汚らしいへソの干乾しが、どのようにおふくろと俺をつないでいたか一寸想像することができなかったが、なんだか尊いものを見る時のような、おそれ多いような気持ちで小箱と、その中のものを眺めた。

この小さな町は、まさに俺にとって世界であり小宇宙であったが、実はそれよりも大きな世界と大宇宙では、たいへんなことが起こっていたらしい、俺にとって、その大世界を想像させるよすがとなるものは、たとえば鉄道線路の上を煙を吐きながら走り去って行く汽車を見る時か、高い空を流れて行く白雲を見る時に限られるが、やはりこの小さな町だけが世界ではないらしい。俺たちの与り知らぬ遠い所で、いろんな事がなされ、作り出され、そして壊されていたのだ。
そのたいへんな事を、いったい誰から最初に聞いたか、はっきりしないが、初めヒソヒソと人から人へとささやかれていたニュースが、そのうち公然のものとなり、初めのうち疑われ否定されていた事が、そのうちもはや動かすことのできぬ既成事実となってきた。日本が敗れた……日本の兵隊が外国の兵隊に負けたのだ。日本人は皆殺しになるかも知れない、今のうちに逃げなければならない。    

しかし、俺にはそれらのニュースが驚くべきものだったとしても、不思議なことに、実感としてせまって来ないのである。この小さな町をつつみ込むような世界の存在が、はや俺にとって抽象的な存在である以上、その抽象世界で演じられた事件もまた抽象の範囲を毫も出ないのである。                       
ただ、周囲が妙に落ち着きなく、騒がしくなってきたことだけは、敏感に感じとった。日本人ばかりでなく、中国人もなにか今までとは違った態度をとりはじめたようだ。   
「こういう困った時に、本当に人間というものが分かる時よねーー」   
と、おふくろが正田さんのおばさんに言っていたことがある。それがどういう意味のことか知らぬが、おそらく、自分が困った時、周囲の人間の日頃の言うことや行なうことが、どれだけ本物であるかどうかが分かる、ということなのだろう。
事態は、俺たち子供の与り知らぬところで急速に変化して行くらしい。子供は大人の庇護の下にあるとは言え、現実の幾分かに参与させるべきだと思うが、大事な時には子供は決まって無視されてしまうものらしい。

さて、俺は今、そのような不可解な潮の流れにまんまと乗っけられて、こうしてトラックの上に文字通り積み込まれたのである。午前十時ごろなのに、曇空で、気のせいか物悲しい午前である。町はヒッソリと静まりかえっている。時おり広場を主人に置き去りにされた犬どもが、それとも知らずに無邪気に横切って行く。町がヒッソリしているのは.昨夜ほとんどの日本人が、最終列車でこの町を引払ったからだ。残ったのは、俺の家と、フッケン長さんとこの一家だけだ。どうして俺たちだけが残ったかって? 先ほどもボヤいたように、それは俺の知らぬところで決められたことなので、なんとも答えようがない。ただ間違いないのは、俺たちだけが、皆に一足遅れて、しかもオンボロトラックに乗って、町を去ろうとしているということである。
「皆んな起きて!さあ、日本に無事帰れるように、神さまに祈りましょう!」
今朝、寝床の中で聞いた母の声である。昨夜、荷物づくりで遅かったはずなのに、気がせくのか、おふくろはいつもより早く起き出したようだ。
俺たちが、おふくろの声にさそい出されて、玄関前に出ていった時、東の空がいやに赤かった

「朝焼けは、あんまり良くないね、雨が降るかも分かんない」、おふくろは、残念そうだった。
おふくろの心配どおり、朝から雲が空に重くたれ下がっている。風も湿気を帯びており、今にも一雨来そうな空模様である。
運転は小田切さんがやることになり、その横にフッケン長さんが坐った。フッケン長さんとこのおばさんと、一人っ子のあずみちゃん、それに俺たち四人は後ろに乗った。荷物も、手に持てるものだけに限られてしまったので、なんだか大がかりな遠足に行く時とさして変わりがない。
長い時間をかけて、やっとエンジンがブルブルと回転しはじめた。俺は運転台におしりを向けて立ち、今別れて行こうとする町を眺めてみた。ヒゾクが出没した山、城壁のところどころにおとぎの国の城のように立っている望楼、電信柱、風呂屋の煙突、学校と役場の赤レンガの建物、黒い石炭かすをしきつめた広場……  
ガクンと一揺れしたあと、とうとうトラックは動き出した。門を出る時、そこまで見送りに出ていた数人の満人と、俺たちと親しく口をきいたピー公の泣き出しそうな顔が見えた。線路に沿って車は走って行く。 
俺はいつまでも町の方を見ていた。町を離れるのが名残り惜しかったこともあるが、今朝あわてておふくろにはかされた半ズボンの尻のところに一銭銅貨大の穴があることも、こうして後ろ向きに乗っていることの理由なのだ。いや、後者の方が俺にとってより重大である。
俺は町を去る悲しみと共に、これから一体どういう未来が俺を待っているのかという漠然たる不安を感じていた。しかし、とりあえずわがはいの未来は、半ズボンの穴の周辺にその無気味な触手を伸ばし始めたらしい。


『青銅時代』第十三号、昭和四十五年

当ページはInternetExplorer5.5以上でご覧下さい。スタイルシート(CSS)を利用しているため他のブラウザでは綺麗に表示されない場合もあります

作品集一覧に戻る

Copyright (C)2002-2006 富士貞房・佐々木 孝. All rights reserved.